岩城宏之指揮都響の黛敏郎「涅槃交響曲」ほか(1995.7録音)を聴いて思ふ

mayuzumi_nirvana_iwaki563涅槃とは一体何なのか?
仏教の世界では「悟り」ということだが、実はそれはキリスト教でいうところの天国でない煉獄ではないのか。根拠はない。あくまで直感的に僕はそう思うのである。
2500年前、仏陀が入滅前最後に残した予言「月蔵経」。

人類が私の説いた正法を捨て、善行をやめ、貪欲のみに走り、仏、菩薩、天神をも恐れず、悪業非行を重ねる時には、互いを滅ぼす終末戦争が起こるだろう・・・。また、環境や自然を破壊するため、その国の水は枯渇するであろう。その上、暴風雨の発生で大水害となったり、大飢饉によって花も咲かず、実も結ばず、一切の農作物は全く実らなくなってしまう。だから餓死する者は後を絶たず、食糧や資源の欠乏から人心は乱れ、法を破るようになる・・・。

いわば世界の涯て、現代の有様を語ったものであるが、それは決して世界の終わりを指すのではないように思う。決して破滅ではない。そもそも釈迦の思想を言葉に直すこと自体ナンセンス。仏典の解釈というのは、その真理を人間の都合良いように収めているに過ぎない。とはいえ、それはあくまで僕の独断と偏見。繰り返す、根拠はない。

少なくとも解脱した仏陀において、否定はないだろう。すべてを受け容れる余裕というのか何というのか・・・。
大いなる転換期においては混乱が起こるのは必定。

黛敏郎:
・「涅槃」交響曲(1958)
・奈良法相宗薬師寺聲明「薬師悔過」
東京混声合唱団
岩城宏之指揮東京都交響楽団
聲明:法相宗大本山薬師寺
安田暎胤、山田法胤、村上太胤、加藤朝胤、大谷徹奘、松久保伽秀、山田裕照、有働智奘、原弘史、林幹郎(1995.7.24-27録音)

梵鐘の神秘。
鐘の音というのは何と癒しに満ちるのだろう。
複雑怪奇な音楽であっても、カンパノロジーと題するだけあって、そこには「安寧」が宿る。
しかしながら、「涅槃」交響曲は実演に触れねば真髄は決してわかり得ない。「悟り」の世界のめくるめく音化は、巨大なホールですべてが一体となる瞬間にしか現出し得ないものゆえ。
何度聴いてもその神秘にひれ伏す思い。
岩城宏之の再生する「涅槃」の素晴らしさ。
これを聴くと、先日、下野竜也がいかに有機的かつ鋭敏な音楽を創造したかが一層理解できる。さすがに実演は音盤を凌ぐ。

1958年の黛敏郎。

ここ数年来、私は鐘に憑かれてしまったようだ。どんなすばらしい音楽も余韻嫋々たる梵鐘の音の前には、全く色褪せた無価値なものとしか響かないとは、一体どうしたことだろう。
~ライナーノーツ

初演時のプログラムにおける作曲者自身の言葉である。
たぶんこの交響曲に仏教的な思想の反映はないのだろう。
ただ音楽的に、ただ純粋に、彼はその鐘の美しさに惹かれただけなのだ。

それにしても涅槃とは一体何なのか?

 

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