バーンスタイン晩年のシベリウス

レナード・バーンスタインの晩年の音楽には「生への執着」のようなものが感じられる。
おそらく・・・、人間は自分の死期が近づくとどこかでそのことがわかるのだろう。
現世肯定的で、粘度が高く、聴いているその瞬間、金縛りにでも遭うが如く惹きつけられる。あまりに人間臭く、楽曲によってはとてもではないけれどついて行けないという解釈もあるにはあるけれど。
シベリウスの後期の交響曲などはどちらかというと「ついて行けない」方のひとつだと僕はずっと思っていた。シベリウスの音楽はもっと自然や宇宙と一体になる、俗世間から隔離された透明で清澄な世界なのだと。

先日、久しぶりにバーンスタインの指揮するハイドンの「驚愕」交響曲を観て、確かにこの作品は飽きの来やすい音楽なのだが、巨匠の指揮姿を確認しながらだと不思議に「聴かせてくれる」ことに気がついた。身振り然り、心構え然り、あるいは気合い然り、音楽の全てがバーンスタインの動きと一体化する。それはカルロス・クライバーの蝶が舞うような華麗な姿とはまた別物で、一挙手一投足に重みがあり、それが音となって顕れ、聴衆を感動の坩堝に巻き込む。

終演後の聴衆の怒涛のような拍手喝采がそのことを自ずと物語る。
特にシベリウスの変ホ長調交響曲の最後の和音が鳴り終わった後の余韻冷めやらぬうちのそれには思わず熱いものが込み上げるほど。すでにこの頃から体調は万全ではないだろうに、音楽に身も心も捧げるというべき渾身の指揮。

シベリウス:交響曲第5番変ホ長調作品82
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

フィナーレ後半の、うねるような弦の伴奏の上をトランペットが高らかに歌い上げる旋律を耳にするだけで、この独特の遅いテンポが理に適っているように感じられ、それだけで失禁状態(笑)。最後の6つの和音が響くその瞬間はバーンスタインの決然とした動きそのものと連動する。ここを聴くためにこの録音(あるいは映像)が残されたようなものだ。あくまでバーンスタイン流人間ドラマ的シベリウスの世界(マーラーのよう)だが、これはこれで良し。

シベリウス:交響曲第7番ハ長調作品105
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

もうひとつ最後の交響曲。何とバーンスタインはこの単一楽章の音楽を25分以上かけて粘っこく演奏するが、このあまりに主観的な解釈が実に堂に入り、そんなはずではないのだけれど「こうでなくちゃ」と思わせる瞬間が頻出する。例えば前半の、弦楽器群が上に上にと歌い昇ってゆくところに鳴り響くトロンボーンの主題の崇高さ。決してうるさくならず、すべてのバランスが整い、音楽の細部までがのぞき込める。
曲が進み、第2スケルツォから最後のパートに引き継がれ、粘る弦を伴奏にトロンボーンの主題が再現するあたりは、こともあろうに「エロス」さえ感じるほど(あくまで僕の主観)。
なるほど、人間と自然・宇宙との一体というより、この音楽のもう一つの側面は「男と女がひとつになる」という意味合いも持つのかも。法悦の境地にあるバーンスタインの顔・・・。
思わず繰り返し観た。久しぶりだっただけに・・・、驚いた。

 

 


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