キース・ジャレットのショスタコーヴィチ「24の前奏曲とフーガ」を聴いて思ふ

shostakovich_24preludes_fugues_jarrett189母の胎内の記憶が蘇るよう。
キース・ジャレットの奏でるショスタコーヴィチは、まるでアンドレイ・タルコフスキーが描いた「水」の如く象徴的。否、というよりほとんど水の中にあるかの如く幽玄で自由だ。このリリックな調べは、即興を得意としたキースならではのバッハとショスタコーヴィチへの神聖なオマージュ。

あわせてヨシフ・ブロツキーの「ヴェネツィア―水の迷宮の夢」をひもとく。

どこかの田舎町にやってきたような気がしていた。名も知られず、なんの変哲もないごく普通のところ―たとえば自分の生まれた場所―を、久しぶりに訪れている感じだった。こんな感覚になったのは、多分にぼく自身がこの町では誰でもないということと、駅舎の階段にひとりで立っているという不釣り合いな状況のせいかもしれない。忘れてしまうにふさわしい人間だったのだ。それに冬の夜でもあった。ずっと以前、前世でぼくがロシア語に訳したイタリアの詩人ウンベルト・サーバの詩の最初の一行を思い出す。「荒涼たるアドリア海の深みで」。そう、深みだ、とぼくは思った。
ヨシフ・ブロツキー著/金関寿夫訳「ヴェネツィア―水の迷宮の夢」(集英社)P12-13

バッハを規範とし、何百年という音楽の歴史を俯瞰する24の前奏曲とフーガ。学生時代、「技巧に走った作品を作るのは私の領分ではない」とフーガの方法を拒絶したショスタコーヴィチだったが、1950年7月のライプツィヒにおけるバッハ没後200年祭での音楽的印象を心に刻み、いよいよ彼らしい超絶的なフーガを生み出した。真に荒涼たる深み。そして、何という静けさ!

バッハの音楽から受けた刺激がいつまでも尾を引いた。1950年10月半ばに、ショスタコーヴィチはニコラーヴァを家に招き、できあがったばかりのそれぞれハ長調とイ短調の2つの調性による、前奏曲とフーガを演奏してみせた。その後数か月間、彼は前奏曲とフーガの作曲を続け、1曲仕上がるたびに、誰よりもニコラーエヴァに聴かせた。当初、連作にするつもりはなかった。
ローレル・E・ファーイ著/藤岡啓介/佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチ ある生涯」P231-232

ニコラーエワの、ある意味正統派の演奏とは正反対の、自身のソロ・コンサートで即興するように音楽を重ねてゆくキース・ジャレットの妙味。

・ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ作品87
キース・ジャレット(ピアノ)(1991.7録音)

キースは僕たちに、いつもと同じように静かに語りかける。躍動的なシーンであっても音楽は常に沈潜する。例えば、第20番ハ短調のフーガにおける底知れぬ哀感は、作曲者の遠い未来への不安を表わすものなのか、それとも現在の満ち満ちた幸せの象徴か。キースは「時」をつなぎ合わせる天才だ。
続く第21番変ロ長調の、いかにもショスタコーヴィチ風のアイロニーこそピアニストの真骨頂。そして、第22番ト短調の前奏曲は不吉な音の万華鏡、でありながら実に美しい。第23番ヘ長調の繊細な音の動きもひとたびキースの手にかかればジャズと化す。前奏曲とフーガの対比の素晴らしさ。
ちなみに、この曲集のクライマックスは間違いなく最後の第24番ニ短調。ここに在る深層の叫びを聴いてみよ。そして、森羅万象を映し出す鏡たる数多の水滴の如くの音の粒のひとつひとつを心から感じてみよ。

時こそが神なのではないかという考えに、ぼくは常に執着していた。少なくとも神の霊とは、そのようなものではないだろうか。もしかしたらこの考えは、ぼく自身が考え出したものだったかもしれないのだ。しかし今はよく覚えていない。それはともかく、もしも神の霊が水面を動いたとしたら、水はそれを映しだしたはずだ、とぼくはいつも思っていた。そのためかぼくは水に対して、ある特別の感情を持っている。水の作り出す襞、しわ、さざなみに対して―そして、これは北国生まれのせいか―灰色に対して、ぼくはただ、水は時のイメージだと思っている。
ヨシフ・ブロツキー著/金関寿夫訳「ヴェネツィア―水の迷宮の夢」(集英社)P46-47

時こそは愛。ならば音楽も愛を示すということ。
バッハへの愛、祖国への愛、人類への愛、神に満たされる24の音楽たち。

 

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1 COMMENT

岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] この「思念」のいわば垂れ流しは、かつてどこかで聴いたものだと思った。 記憶をひもといた。 ドミトリー・ショスタコーヴィチである。それも、特定の・・・、いったい何だったか? しばらく「音」に浸っていて思い出した。理知的であるのだが、奥底に感情が刻印される音楽。それも極めて抑圧された感情が。 なるほど、キース・ジャレットが録音した「24の前奏曲とフーガ」作品87。あの中にも抑圧された自由があった。いや、自由をひけらかした抑鬱と言った方が正しいか? とにかく、繊細で頭脳的なショスタコーヴィチの音符群を見事にジャズ的方法で(一見)「気ままに」音化した時間があそこにはあった。 […]

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