カラヤンのモーツァルトを聴いて・・・反省(笑)

人間の知識というのは宇宙創造の原理から言えば取るに足りない真に矮小なものである。それこそ自然と対峙し、それを支配しようなどと思うこと自体愚かな考え。「何も考えずに」というと極めて語弊のある言い方になるが、基本的に流れに委ねて直感で生きることを心がけたい。それはもちろん「受身」になるということではない。あくまで能動的に、全脳を使って仕事をする(=生きる)、すなわち人と接するということである。キャリア・カウンセラーの資格を維持するために継続学習なる講演会に通ったりするのだが、大体は意味のないものが多い。しかしながら、専門家のお話に謙虚に耳を傾けていると、1つや2つ、勉強になることが必ずある。例えば、日常、大学生に関わる身であるゆえ、若者のキャリアを考えるときに、いかに「ほめて伸ばすか」ということが重要で、逆に言うと教育の現場で「そういうことがなされていない」現状も一方であることに驚かされた。ほんの少しの「進歩・進化」を見極めること。そしてその発見をもってその人を絶賛すること。たったそれだけのことで実に日本の教育というものは大々的に変化していくものだと僕は信じる。

よく知らないことをいかにも知っているかのような口調で一席打つと、結果痛い目に遭う。先生といわれる立場もまさしくそう。あくまで「体感的に知っていること」しか説得力をもたない。ゆえにいくつになってもチャレンジしたい。「知らないこと」をできるだけ少なくしていくために。

30年超クラシック音楽を聴いてきたとはいえ、そう考えると「もどき」のようかも。その演奏をどんなに賞めようが貶そうが、頭でこねくり回しているうちは「似非」。あれだけ「嫌い」とレッテルを貼っていたカラヤンの演奏だって(嫌いも何もないだろうに・・・)缶詰を聴いて云々していたようなもので、実演に触れていない以上まったくの「誤解」だろうし。ちなみに、少しお酒を入れて、かつ頭を真っ白にして聴いてみるとこれが実に良い。カラヤンのモーツァルトは、そのレガート過剰な演奏から毛嫌いされる場合も多々あるが、それが良いと思える瞬間があるのだから捨てたものじゃない。

モーツァルト:木管楽器のための協奏曲集
・フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299
・フルート協奏曲第1番ト長調K.313
・オーボエ協奏曲ハ長調K.314
・クラリネット協奏曲イ長調K.622
・ファゴット協奏曲変ロ長調K.191
ジェームズ・ゴールウェイ(フルート)
フリッツ・ヘルミス(ハープ)
アンドレアス・ブラウ(フルート)
ローター・コッホ(オーボエ)
カール・ライスター(クラリネット)
ギュンター・ピースク(ファゴット)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1971.8.17-23)

40年前の、全盛期の録音。当時のベルリン・フィルの主席たちがソロをとる実に豪華な布陣によるモーツァルト。ともかく輪郭が明確でぶれないところが凄い。何も言うまい、何も語るまい。ただただ虚心に耳を澄ますべし。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。

>よく知らないことをいかにも知っているかのような口調で一席打つと、結果痛い目に遭う。
>30年超クラシック音楽を聴いてきたとはいえ、そう考えると「もどき」のようかも。その演奏をどんなに賞めようが貶そうが、頭でこねくり回しているうちは「似非」。

ですから、クラシック・ファンは、少しでも、下手でも、演奏経験がないよりあったほうがいいと思います。

昨日の話題の続きになります。
岡本さんが輪廻転生について肯定派だということは、前から存じあげておりましたが、私は、そういう観測不可能な仮説を信じる方々が、量子力学から自然に導き出される「パラレルワールド」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89
という発想にロマンを抱かれないのが不思議でたまりません。

私などは、死んだ肉親に会いにいくには「パラレルワールド」を使うしかないのかな、などと真剣に考えることがよくありますので、これもれっきとした宗教です。一個のセシウム137の原子核が今日崩壊する世界と、10年後に崩壊する世界と、30年後に崩壊する世界は並存しているという、社会の常識では信じられないような考え方は、物理学の世界では常識みたいです。

ちなみに輪廻転生について肯定派の方々は、原子力発電所が出す半減期何万年、何十万年以上という高レベル核廃棄物には、この何回地球で生まれ変わっても付き合っていかなければならないので、もっと心配、注意すべきです。

先日から何が言いたいかというと、マーラーの交響曲第5番など、20世紀の幕開けに書かれた音楽を聴くと、宗教、哲学、科学、そして音楽の進化(退化?)の歴史をいやでも連想し、それを互いに無視することなどナンセンスだということ。むしろ、「真実(神)はただ一つであり、宗教の違いは単なる形式の違いである。また、名前は畢竟ただの名前にすぎない。ユダヤ教もキリスト教も行き着く先は同じで、ただ形が違うだけなのなら、たとえユダヤの名前であっても、キリスト教という形の中で真実を追求することは可能なはずではないか」とのメンデルスゾーン父子の信念は、宗教だけでなく、哲学にも、科学にも応用でき、最後は矛盾することなくひとつの真実に統合、行き着くはずだと、私は信じます。

ここで、思い出すのは、フリーメイソンへの入会条件です。
「入会資格として何らかの真摯(しんし)な信仰を要求しており、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教(以上アブラハムの宗教)の信徒はもちろん、仏教徒などであっても入会できるが、無神論者、共産主義者は入会できない。たとえ信仰する宗教があったとしても、社会的地位の確立していない宗教(例として新宗教各派)である場合は入会できない。ただし、特定の宗教を信仰していなくても、神(あるいはそれに類する創造者)の存在を信じるものであれば、入会資格はある。これらの信仰を総称して、「至高の存在への尊崇と信仰」と呼ぶ・・・・・・。」(ウィキペディアより)

そして、フリーメイソンの理念は、人間の理性や博愛(超宗教的思想)です。

渡辺和彦氏も「名曲の歩き方 (音楽之友社)」159ページで書いておられますが、〈古代ペルシャの思想家ゾロアスター→ザラシュトラ→ツァラトゥストラ→ニーチェ、さらにはモーツァルトの《魔笛》に出てくるザラストロ、などは地下水脈でしっかりと繋がっているらしく、「関係ない」どころではない〉ようですね。

※懐かしい録音
『魔笛』全曲 カラヤン&ベルリン・フィル、マティス、アライサ、他
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3871351

渡辺和彦氏も「名曲の歩き方 (音楽之友社)」161ページより

・・・・・しかし西洋クラシック音楽は耳だけによる感性の芸術ではなくて、理屈の音楽、頭でこねあげた芸術の要素も強くもっている。この側面を無視、敵視してしまうと、背後に隠れている知的な面白さをとらえ損ねる。・・・・・・

返信する
雅之

訂正
× メンデルスゾーン父子の信念は
当然信念を持っていたのは、息子のほうですよね(笑)。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
そうですよね、何度もおっしゃられている「自ら演奏すること」ですよね。
僕も密かに始めます(何を・・・というのはとりあえず秘密ということで・・・笑)。

>「真実(神)はただ一つであり、宗教の違いは単なる形式の違いである。また、名前は畢竟ただの名前にすぎない。ユダヤ教もキリスト教も行き着く先は同じで、ただ形が違うだけなのなら、たとえユダヤの名前であっても、キリスト教という形の中で真実を追求することは可能なはずではないか」とのメンデルスゾーンの信念

そう、これです。まったくその通りだと思います。

ということは、
「哲学にも、科学にも応用でき、最後は矛盾することなくひとつの真実に統合、行き着くはず」ですね。

ただし、もうひとつ、どうもそれを超えた何かがあるのではないかと思うんですよね。感覚的なものなので上手く説明できないのですが・・・。
人間が作った学問を超えたところにこそ「答」を見いだせるのではないか、
逆に言うと、この世に生きていて、身体を持っている以上いつまでたっても「真理」は見いだせないのか・・・、などとも考えたりします。うーん、ペシミスティックですが・・・。

>しかし西洋クラシック音楽は耳だけによる感性の芸術ではなくて、理屈の音楽、頭でこねあげた芸術の要素も強くもっている。この側面を無視、敵視してしまうと、背後に隠れている知的な面白さをとらえ損ねる。

そのとおりですね。こうやってブログ上でああだこうだとこねくりまわしながら、何年も続けていられるのは「音楽」の性質がそもそも上記のとおりだからですよね。

カラヤンの最後の「魔笛」。当時評判になりましたね。でも、残念ながらご存知のように真面目に聴いておりません。この機会にしっかり聴いてみるようにします。
ありがとうございます。

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