Keith Jarrett München Concert (1981)

自分の作品を指揮することは一度も考えたことがない、と断言する。それが「演奏されるというのはまた別の難関」で、作曲家の人生は「また別の人生」。おそらくは、日の目を見ることのなかった作曲家ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを見ているために、そういう気にもなれなかったのだろう。自分の作品を実際に人前で演奏する必要はないが、作品そのものと、それが生まれるに至る過程が彼には必要なのだ。「私は指揮をするだけでは、音楽が演奏できないのです」。
クラウス・ウムバッハ/齋藤純一郎/カールステン・井口俊子訳「異端のマエストロ チェリビダッケ—伝記的ルポルタージュ」(音楽之友社)P318-319

アウトプット、すなわち能動的行動(ここでは創造という意味で)が人間には必要だということだ。その上で、次のように続けられる。

しかしながら、彼には音楽のない人生も—「もちろん!」—充分に考えられると言う。やはり謎のヴェールに包まれた人。「私は映画館には行きません。小説は虫唾が走るほど嫌い。実話にはどんな作り話も勝てません。愛、嫉妬、マフィア、推理ドラマ・・・それが何だというのですか? ヘミングウェイ? 願い下げ。1945年以降のドイツ人作家はお話にならない。パブロ・ネルーダと会ってみたいと思った時期がありました。しかし彼の生涯について書かれたものを読んで以来、興味がなくなりました。人間の想像力は文学よりずっと良いものを創作できると信じています。誰でも、自分に素直になれたら、どんな小説にも負けない想像力を持っています」。
~同上書P319

チェリビダッケの思想は正しい。
極端だが、それはそれで的を射た言だと僕は思う。
上記の言葉から、そもそもチェリビダッケが録音嫌いであったこと、そして彼の芸術を真に享受するには残された録音だけではまったく間に合わないことがよくわかる。
巨匠は、目の前で、たった今創造される音楽に、芸術にこそ、否、そこにしか「真」はないと確信していたのだろう。だからこそ、ミュンヘン・フィルとの崇高な名演たるブラームスの「ドイツ・レクイエム」から遡ること1ヶ月前、キース・ジャレットの即興リサイタルに歓喜し、心から感動できたのだろうと想像する。

オジェー ゲリーゼン ミュンヘン・フィル合唱団 ミュンヘン・バッハ合唱団 チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル ブラームス ドイツ・レクイエム作品45(1981.7.2Live)

キース・ジャレットは、世界のコンサート・ステージにおいて独特の存在となった。その影響力がジャズという枠をはるかに超えたミュージシャンである。『ケルン・コンサート』がリリースされたとき、作家のヘンリー・ミラーは感動のあまり、いまではほとんど忘れられた手紙という手段を用いてジャレットへの賞賛を慎重な言葉で表現した。1981年6月2日、指揮者のセルジュ・チェリビダッケは、ジャレットのソロ・コンサートが終わって観客がミュンヘンの夏の夜の闇に消えたあともずっと、誰もいなくなったヘルクレスザールの最前列に座り続け、この魔法のような音楽イベントから立ち去ることができなかった。マルセル・ライヒ=ラニツキ(ドイツの影響力のある文芸評論家にして音楽通)は、その関心は当然ながらシューベルトの歌曲やリヒャルト・ワーグナーの楽劇に向かう傾向にあったが、2007年10月、フランクフルトのアルテ・オーパーで音楽評論家仲間たちが生き生きと語ったキース・ジャレットのピアノ独奏に何かしらの真実があるのか、また、自身の豊富な音楽体験に新たに加える価値があるのかどうかを確かめる機会を逃さなかった。結果として、それは価値のあることだった。ライヒ=ラニツキはジャレットの主にドビュッシー、あるいはスクリャービンを思わせる部分にいささかの疑問を示したが、それでも出かけた価値はあった。
ヴォルフガング・サンドナー/稲岡邦彌訳「キース・ジャレットの真実 ジャズピアノの歴史を変えた即興演奏とその人生」(DU BOOKS)P280

筋の通った即興演奏には誰も勝てない。
(モーツァルトもベートーヴェンも即興の名手だったのだから)

4つのパートは、それで一つの壮大なソナタを構築するよう。

・Keith Jarrett:München Concert (1981)

Personnel
Keith Jarrett (piano) (1981.6.2Live)

ミュンヘンは、ヘラクレスザールでのライヴ録音。
チェリビダッケが金縛りにあったほどの感動は、この「音の缶詰」からは体験できないだろう。しかしながら、全編祈りに溢れ、喜びの爆発が刻印される、文字通り「音を楽しませてくれる」キースの奏でる即興演奏に言葉がない。

全身全霊で音楽に向き合うキースの姿が、目前に現れるような動的なシーンが頻出。
ピアノが旋律楽器であると同時に打楽器でもあることをあらためて知らしめてくれる音の洪水。

ピーター・リュエディは書く。

キース・ジャレットのソロ・コンサートはすべて放棄と降伏だ。事前に何の計算もされることのない、何の警戒もしていない、ここまで自然発生的な音楽には何の保証もないかもしれないからだ。アルバムでは、これが完全な状態で再現されるか、或いはできないかの一つだ。不器用さ、模索、待機、無力感、そして時折永遠に続くオスティナート(ジャレット曰く、人生が永遠に続くのと同じように)の節は、それと同様に、最も濃密で、最も複雑な音楽的恍惚のオーガズムに所属するものだ。
(ピーター・リュエディ「魔法使いと手品師たち」)
~UCCE-1141/3ライナーノーツ

果たして本当に彼は無心なのだろうか。
聴衆への(ある種過剰な)要求を考えると、実はそうでもないのかもしれない。
なるほど、音楽とは「陰陽二気」の世界の賜物だということがよくわかる。
「真空」からは音は生まれない。それならばやっぱり有心だ。

聴衆を楽しませる以前に、彼は自分自身が楽しんでいた。
(パート3はあまりに愉快だ)

キース・ジャレット「ペイント・マイ・ハート・レッド」
キース・ジャレット「ハートランド」

アンコールがまた思念籠るオリジナルで、聴く者を癒してくれる。
(キース・ジャレットのコンサートに終わりはない)
終演後の聴衆の歓呼の中にチェリビダッケがいるという奇蹟!

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む