海童道宗祖の「神秘の竹の音―前衛と古典」を聴いて思ふ

waazumido-shuso_misterious_sound_of_bamboo-flute431誰にもある日常の苦悩というのは、他人から見たらばどうということのない事実であることが多い。大抵が些細なことなのだ。それでも当人には当人なりの事情がある。また、そこに複雑に絡む人間関係があればなおさら手強い。

ちょうど30年前のアンドレイ・タルコフスキー。最後の作品である「サクリファイス」の編集作業真っ只中の頃。
当時の日記には、ごく普通の日常の風景だけでなく、病床(末期の肺癌)にあった監督の深層が詳細に語られていて興味深い。

今日はビデオ装置を持って、みんなが来た―アンナ=レーナ、スヴェン・ニクヴィスト、ミハウ、レイラ。コピーを作り、独白シーンの編集もした。2つのシーンを縮めた―アレクサンデルの(子供相手の)最初の独白を1分40秒に、それからモンテーニュの引用のあるオットーの独白を40秒に。
レオンが来て、血液検査の結果は良かったから、なるべく早く病院に来るようにと言った。経過がこのくらい良好なら、まず早速日曜にでも。
晩には客もみな帰り、家族でお茶を飲みながら、いろいろなことを憶い出しつつゆっくり話をした。本当にくつろいだ。アンドリューシカとアンナ・セミョーノヴナがここにいるということがいまだに信じられない。夢から醒めるのが恐い。
アンドリューシカとアンナ・セミョーノヴナは、レイラの騒がしい言動に不快を覚えたようだ。ラリーサは言うまでもない。レイラの子供っぽい馬鹿げた振舞いやわけもなく野心満々の態度には以前から堪え難い思いでいるのだ。だが、この映画が仕上がるまでは関係を断つわけにもいかないし、家に来るなというわけにもいかない。パリではスウェーデン語とロシア語の双方に堪能な通訳はそうそうみつからないのだから。
(1986年1月24日、パリでの日記)
アンドレイ・タルコフスキー著/武村知子訳「タルコフスキー日記Ⅱ」(キネマ旬報社)P251-252

家族団欒を通じ「本当にくつろいだ」という言葉が重い。苦悩の裏にあるのは安寧だ。
「サクリファイス」は、冒頭に流れるバッハの「マタイ受難曲」アリア「憐れみたまえ、わが神よ」の哀しくも儚い調べが観るものに衝撃を与えるが、同様に(それ以上に?)印象深いのが、アレクサンデルが自室で日本の尺八風のレコードをかけるシーン。

一聴、その幽玄さと、時折生じる高度な破裂音に僕は衝撃を受けた。
これこそ海童道宗祖の法竹(ほっちく)(5個の音孔を具えた縦笛)による大宇宙の神秘音。
どうやらその音は、人体と自然との合一から発せられるものらしい。

海童道宗祖:神秘の竹の音―前衛と古典

「霊慕」は宇宙の霊性との体達を現したものだという。解説には次のようにあるが、残念ながら宗祖の法竹の響きを言葉に移すのは容易ではない(要は聴かない限りその凄さはわからないということ)。

元は東北に伝わる一曲調であったが、体達によりて哲理を具現する調べと化したのである。その曲想は、前調べに始まりて本題の調べに移り、最後に鉢返えしの調べに至る形式をとり、曲中には桜落しという技法が流れて、これが曲の特色となる。
~CDP-1079ライナーノーツ

あるいは、難曲中の難曲であるといわれる7分超の「大菩薩」における言語を絶する妙技。

「大菩薩」は、全身全霊と自然の竹とが合一となって生み出す響流の調べであり、これは宗祖が20歳を過ぎた頃の創始になる。・・・(中略)・・・この修業に専念しても、これをつらぬき通すことは容易に出来難く、これまでに幾多の修行者達が学ぶも、悉く倒れ至って、いまは宗祖一代限りで断絶とされている。
~CDP-1079ライナーノーツ

こういうものに目をつけるタルコフスキーの天才。
達筆であったタルコフスキーの文字は、最期の頃になるともはや乱れ読みにくい(当然キリル文字だが)。

ハムレット・・・一日中ベッドの中だ。身を起こすこともできない。下腹部と背中が痛む。神経も。脚を動かすことができない。シュヴァルツェンベルクはこの痛みがどこから来るのかわからずにいる。化学療法のせいで昔のリューマチがぶり返したか。腕もひどく傷む。これも一種の神経痛のようだ。結節か何か。衰弱がはなはだしい。死ぬのだろうか?まだひとつ手はある。治療全体と私自身を、サルセールの病院でも診てくれたあの医者の監視に委ねるのだ。ハムレット・・・?腕と背中の痛みがなければ、化学療法で回復したとも言えるだろう、だが今はもう何をする力も残っていない―それが問題だ。
(1986年12月15日、パリでの日記)
~同上書P339-343

“To be, or not to be…”
あまりに壮絶。そして、そのタルコフスキーの魂を癒すようにうねるのが海童道宗祖の法竹の音。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ


4 COMMENTS

雅之

タルコフスキー「サクリファイス」で、映画同様忘れられないのは、自死した次男のことを綴った、柳田 邦男 (著) 「犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日 」(文藝春秋 手元にあるのは1995年7月30日第一刷)です。

http://www.amazon.co.jp/%E7%8A%A0%E7%89%B2-%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B9-%E2%80%95%E3%82%8F%E3%81%8C%E6%81%AF%E5%AD%90%E3%83%BB%E8%84%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE11%E6%97%A5-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9F%B3%E7%94%B0/dp/4167240157/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1453673420&sr=1-1&keywords=%E7%8A%A0%E7%89%B2%E3%80%80%E6%9F%B3%E7%94%B0%E9%82%A6%E5%A4%AB

メンゲルベルク指揮「マタイ受難曲」が好きで、タルコフスキーの映画「サクリファイス」に感銘を受け骨髄移植のドナーとなることを決断した次男、洋二郎。

・・・・・・二つの腎臓の摘出がすんで、洋二郎の遺体をわが家に連れて帰ったのは、午後十一時過ぎだった。
 居間に安置して、グラスに水を注いで供えたとき、賢一郎(長男)がテレビのスイッチを入れた。偶然にも、NHKの衛星放送でタルコフスキーの映画『サクリファイス』が放送されているのに気づいたのだった。映画はいままさに終わろうとするところだった。
 
 なんということだろう。あの『マタイ受難曲』のアリア「憐れみ給え、わが神よ」のむせび泣くような旋律が部屋いっぱいに流れた。私は立ちすくんだ。洋二郎は神に祈ったことはなかった。頑なまでに祈らなかった。私も目に見えない大きなもの、すべてを超越したものとしての神の存在に畏怖の念を抱きつつも、全身全霊を投げ出して祈るという行為をしたことがなかった。だが、このとき私は、神が洋二郎に憐れみをかけ給うてほしいと心底から祈る気持ちになった。どういう神なのかと考えることもせずに、アリアの旋律はいつまでもいつまでも私の胸に響きつづけた。・・・・・・~同書P188

これを初めて読んだとき、なんというシンクロなのかと思いました。

海童道宗祖は、以前から岡本様、お好きでしたよね。私好みな感じですので、ぜひ聴いてみたいと思います。

タルコフスキーは黒澤明や日本の文化から多大な影響を受けていますよね。タルコフスキーの「水」へのこだわりも、「羅生門」や「七人の侍」からの影響が確実にあると思います。

「魂を癒すようにうねるのが海童道宗祖の法竹の音」と「マタイ受難曲」、タルコフスキーと黒澤明、なんだか皆、繋がってますねぇ。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
柳田邦男さんの同著は当時僕も感動した一冊です。
そこでのメンゲルベルクのエピソードや「サクリファイス」のシンクロには心底感動したことを思い出します。

海童道宗祖は絶対に聴いてください。間違いなく雅之さん好みです。
しかしながら本CDはもともとのLPは2枚組で、CD化されたときに収録時間の関係で数曲が未収録になっています。
いずれ完全な形でリリースされることを願って止みません。

>タルコフスキーの「水」へのこだわりも、「羅生門」や「七人の侍」からの影響が確実にあると思います。

ですよね!

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む