アバド指揮アンサンブル・アントン・ヴェーベルン ノーノ 進むべき道はない、だが進まなければならない・・・アンドレイ・タルコフスキー(1991.10録音) 

そしてもうひとつ印象的だったのは、シベリアを旅している間中—このかつての不幸な歴史を背負った土地、投獄され、虐殺された多くの人々の犠牲があった土地を旅している間中、僕は一度として一人ではなかったということです。僕はいつも過去にこの土地に流された多くの犠牲者たちと一緒に旅していたような気がするんです。ある時はドストエフスキーが一緒にいたし、ある時はシベリア流刑にあい、あるいは殺されたデカプリスとの人々と一緒にいた。
(1987年11月27日、すきやき・よしはしにて)
「武満徹著作集5」(新潮社)P101

ルイジ・ノーノの思念は、過去と未来が錯綜しながら現在を彷徨っていたのだろうか。
彼の作品を聴いていると、現在を鏡にして、過去と未来を相互に行き来できるタイムマシーンに乗っているような錯覚に陥る時がある。ノーノの霊性は、肉体から真に解放されることをいつも望んでいたのだと思う。

そして、囚人も実際に人間であるから、当然、人間なみに扱ってやらなければならない。おお、見よ! 人間らしい扱いは、いつか昔に神を忘れてしまったような者をさえ、人間にひきもどすことができるのである。こうした『不幸な人たち』にこそ、もっとも人間らしい扱いが必要なのだ。この扱いこそ彼らの喜びなのである。わたしはこうしたりっぱな高潔な指揮官たちを見たことがある。わたしはこうした虐げられた人たちに対する彼らのあたたかい行為を見たことがある。ほんの二言三言のあたたかい言葉—もうそれで囚人たちはほとんど精神的によみがえったようになるのだ。彼らは、子供のように、喜び、子供のように、愛しはじめる。
ドストエフスキー/工藤精一郎訳「死の家の記録」(新潮文庫)P211

現世という苦界に投げ下され、身を持ったた僕たちは(ある意味)囚人同様。指揮官の「あたたかい言葉」はむしろ蔑みの裏返しの、高邁な心からのものかもしれないが、僕たち人間はあたたかい、慈しみに満ちる行ないを誰しも求めているのである。

文字通り精神的によみがえったルイジ・ノーノは暗澹たるも希望に溢れる作品を亡きアンドレイ・タルコフスキーに捧げた。

ウィーン・モデルンII アンドレイ・タルコフスキーへのオマージュ(1991.10録音)
・ルイジ・ノーノ:進むべき道はない、だが進まなければならない・・・アンドレイ・タルコフスキー(1987)
クラウディオ・アバド指揮アンサンブル・アントン・ヴェーベルン
・ジェルジ・クルターク:サミュエル・ベケット「言葉とは何?」作品30b(1991)
イルディコ・モニョーク(語り)
アネット・ザイーレ(ソプラノ)
アルノルト・シェーンベルク合唱団
クラウディオ・アバド指揮アンサンブル・アントン・ヴェーベルン
・ベアート・フラー:熱の顔(1991)
ヴィッサム・ボスタニー(フルート)
エルネスト・モリナーリ(クラリネット)
トーマス・ラルヒャー(ピアノ)
クラウディオ・アバド指揮アンサンブル・アントン・ヴェーベルン
・ヴォルフガング・リーム:像はなく/道はなく(女声合唱を伴った管弦楽作品「旅する者たちであるルイジ・ノーノとアンドレイ・タルコフスキーに」)(1990/91)
イルディコ・モニョーク(語り)
アネット・ザイーレ(ソプラノ)
クラウディオ・アバド指揮アルノルト・シェーンベルク合唱団員

武満徹との対談からさらに引く。
またしても日本の文化の高潔さが現代作曲家の魂を射抜く。

そういう意味で、今回日本に来て興味深かったのは、東京で訪ねた仏教寺院と神社の、あの特殊な共存の仕方ですね。ヨーロッパだったら、ああいう異なる理念があれば、激しく対立するか、それとも理性的に考え方を推し進めてそこに何らかの統合をつくろうとするんでしょうけれど、日本では、それとは全く違う統合の仕方があるらしいということ。なるほど、これは全く違う世界だと思って感心したんですよ。実にたくさんの中心が、自然に共存しているように見えた。
今回、日本に呼んでいただいた第一の喜びは、そうした全く新しい可能性に気がつけたということ、そして先ほどのシベリアの旅も含めて、再び自分を変革する様々な可能性を与えてもらったということです。

「武満徹著作集5」(新潮社)P106

例によって「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」の一環で創作された「進むべき道はない、だが進まなければならない・・・アンドレイ・タルコフスキー」は、異国の地にあって自身の祖国、すなわちそれは命の故郷への真の帰還を願ってのタルコフスキーへのオマージュであり、またノーノ自身の願望によって生み出されたものでなかったか。

犠牲なしでは存在しえない調和、つまり愛における二重の従属性というテーマ、相互愛というテーマがどうして私を揺り動かしたのだろうか。なぜ誰も、愛は相互的でしかないということに気づかないのだろうか。別の愛は存在しえない。別の形では、それはもはや愛ではない。すべてを捧げることのない愛は愛ではない。そうした愛は片輪である。それはいまのところなにものでもない。
アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良訳「映像のポエジア―刻印された時間」(キネマ旬報社)P322

陰陽二元世界の矛盾をタルコフスキーは熟考し、その解決策を何とか探ろうとしたのだろうが、果たして彼には届かなかった。悲哀の芸術家は世界をことごとくインスパイアする。ルイジ・ノーノも武満徹もその一人だ。

本来、犠牲なくとも愛は遂行できるものだ。ノーノの、タルコフスキー最後の大作「サクリファイス」に影響を受けた「進むべき道はない、だが進まなければならない」は、現代世界が抱える、行き詰まった資本主義世界の問題をいかに解決するか、その策をノーノなりに音化した傑作だと思う。ぱったりと途切れる終結こそ真の答えなのだろうと想像する、それから40年近くを経過して、ついにベールがはがされるのだろうか。音楽は永遠だ。

タルコフスキーという人は、あらゆる犠牲に対して、それに耐えぬく力を持っていた人だったんです。あの人は、常に別の空間、別の時間を求めて、それに憧れをおぼえながら死んでいった。何か新しいこと、全く新しい思想を出すということは、常に殺される危険を伴うものなんだけれど、彼は一度としてそれを恐れたことがなかった。
「武満徹著作集5」(新潮社)P107

世界の矛盾に抗いうことを恐れなかった稀代の映画監督への文字通りオマージュの暗い美しさ。

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