
正月3日はブルックナー三昧。
久しぶりに最晩年のオイゲン・ヨッフムが指揮した第5交響曲を聴いた。
老練という、他では聴けない透明感を獲得した超絶名演奏。
初めて聴いた時と同じく、この録音から得た感動が蘇る。
本日帰京 大伽藍と称される渾身の交響曲は、いつ聴いても素晴らしい。
ヨッフムの場合、状況によってはスケールの小さい、どちらかというとせかせかした印象の、感激の薄い録音もあるが、コンセルトヘボウ管弦楽団とのこの演奏は別格、他を冠絶する。
・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(ノヴァーク版)
オイゲン・ヨッフム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1986.12.4Live)
第1楽章アダージョ―アレグロの、音楽の流れに抗わない、ブルックナーの真髄を見事に体現する、真理の音、あるいは造形。また、第2楽章アダージョの神聖な歌。そして、終楽章アダージョ―アレグロ・モデラートの奇蹟!
老子と「ガイド」の考えでは、あらゆる実在は静止への、不動への同じ道を辿るがゆえに同一であり、両者において静止は硬直の同義語として現れる。成長と生成の可能性は、古代の賢人と現代の監督の確信するところでは、あらゆる生物を強力にする。彼らの思想をより正確に表現するには、この言葉をほんの少し変え、「強力」を「可能的」と言いかえる必要がある。生物がまだ冷たくなっていない時には、それは自らの中に計り知れぬ潜在力を秘めている。それは成長〈できる〉、変容〈できる〉、つまり「可能的」なのである。古代の賢人も現代の監督も、「威力」を、外部に向けられ何らかの仕事の遂行に費やされる物理的な力とは考えていなかった。「威力」とは、外部ではなくその所有者自身に向けられた、内的なエネルギーである。そして生き物がそのようなエネルギーを有している以上は、それはたとえ柔弱に見えようとも、無敵である。
(ワエレンチン・ミハルコーヴィチ/西周成訳「映像のエネルギー」)
~アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編/沼野充義監修「タルコフスキーの世界」(キネマ旬報社)P318
ブルックナー休止のキレは、まさに「可能的」なものであり、内的なエネルギーだった。
ジャンルは異なれど、名作、傑作の中にはそういう「ゆらぎ」が必然的にある。
ヨッフムの最晩年の演奏には、そういうものが間違いなくある。
