
タルコフスキーの言葉に従えば、『サクリファイス』の主人公は、彼がどんな悲劇を体験しようとも、それとは無関係に幸福な人間である。幸福だというのは彼が信仰を得たからであった。そしてこの信仰はおそらく、信仰とは和解による心の平安を得るものではない、というキルケゴールの解釈にもっとも近いものなのである。
ドストエフスキー同様、タルコフスキーを悩ましていたのは神聖さとは何か、罪とは何か、という問いである。もしも人が自分の魂を救うためにすべてを捨てて荒野に出かけていくとしたら、残された者はいったいどうなるのか。その問いかけが『ストーカー』ではとりわけ印象深い響きを放っている。この映画の3人の登場人物—「作家」、「教授」、「ストーカー」—がキルケゴールの三者(「美学」「倫理」「信仰の騎士」)をも、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をも踏まえたものであることは明白だろう。
(オクサマ・ムシエンコ/宇佐美森吉訳「タルコフスキーと『存在の哲学』のイデア」)
~アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編/沼野充義監修「タルコフスキーの世界」(キネマ旬報社)P363-364
アンドレイ・タルコフスキー監督「ストーカー」(1979)を観て思ふ
本性からの慈しみによる許しこそが幸福の鍵であることをタルコフスキーは暗に知っていたのだろうと思う。しかしながら、この時点において、タルコフスキーの思想は、あくまで西洋二元論的な枠から脱していない。
タルコフスキーは言う。
現代人は分かれ道に立っている。かれらのまえにはジレンマが立ちはだかっている。新しいテクノロジーの揺るぎなき歩みと、物質的価値のさらなる蓄積に頼って、盲目的な消費者の存在を続けるべきなのか、あるいは、結局は、個人だけでなく、社会のためにも、救いの現実になりうるかもしれない精神的な責任への道を探求し、見出すべきなのか。つまり〈神〉へ戻るべきなのか。人間自身がこの問題を解かなくてはならない。人間だけが正常な精神的生活を見いだすことができるのだ。
~アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良訳「映像のポエジア―刻印された時間」(キネマ旬報社)P323
神は外にはない。自身の佛性を取り戻すことこそ「神」に戻ることだと思う。
前述の論に対して、タルコフスキー自身が注釈を加えている。
ところで、われわれの生活が幸福のために作られたといったのはだれだったろうか。人間にとってそれよりも重要なものはないだろうか。(ただ幸福という概念の意味を変えることができたならばいいのだが、それは不可能なのだ。)これを唯物論者に説明してみるがいい。東洋においても、ここ西洋においても、理解されずに笑われるだけだ。極東については個々では問題にしない。
~同上書P323
「極東」とは日本のことであろう。
日本だけは別であることをタルコフスキーは言外に示している。
そして、日本こそが世界を平和に導く鍵を担っているのだということを当時よりタルコフスキーは見抜いていたのだろうと思う。
「東方の三賢人の礼拝」にすくむオットーとアレクサンデルとの会話の背後に流れる音楽は、海童道宗祖による法竹(ほっちく)によるものだ。
アルバムの冒頭に収められた「霊慕」とは何か?
万物は流転して常に変化を繰り返えすが、かくも変化を繰り返えし乍ら、大自然そのものの姿は相変わることがない、とする宇宙の霊性(こころ)を体達して、ここに現わされた海童道の調べが、「霊慕」である。
なお海童道は、こうしたこころの探求体達を旨とするが、このことをして、哲理または神秘主義の具現というのである。
~CDP-1079ライナーノーツ
呼吸の妙。そして、動静相まってキレが生じる奇蹟。
動の中の静が見事に表現される。
もはやここにタルコフスキーが映画の音楽として選択をした理由があるように思う。
彼は最終解答を得ることができなかったが、確かにその一歩手前までは行き着いたようだ。
「静寂の澄音が、そのまま躍動のはたらきとなる在り方を示す」という「心月」の法竹は、物干竿に音孔を開けただけの自然竹だそう。驚異だ。
撮影のあいだ、われわれは技術的な問題にも、他の問題にも悩まされなかった。だが、撮影の最後に、われわれの全体的な努力の大部分が脅威に見舞われ、われわれ全員が絶望におちいった瞬間があった。ワン・ショットだけで6分30秒つづく火事のシーンを撮影しているとき、突然カメラが故障したのだ。そのことをわれわれが知ったのは、建物全体が炎にすっかり包まれたときだった。われわれの目のまえで、家はすっかり燃えてしまった。火を消すことはできなかったし、撮影もまったくできなかった。4か月にわたって全力を投球し、多大の代価を払った作業が、無為に帰してしまった。問題は、一番重要なセットが燃えてしまったということである。しかし数日後、まったく同じ家が、燃えた家のコピーが建てられた。わずか数日後である。これはほとんど奇跡だった。そして、人はなにかを信じているときどれほどのことができるかということの、これは証明でもあった。彼らばかりでなく、プロデューサーたちも超人である。しかしこのシーンをもう一度撮り直すとき、二つのカメラのスイッチが、—ひとつのカメラは助手によって、もうひとつのカメラは、光の天才的な巨匠であるスヴェン・ニクヴィストの恐怖にうちふるえる手で—切られるまで、筆舌に尽くしがたい緊張がわれわれをとらえて離さなかった。そして、カメラが切られたときはじめて、緊張がゆるんだ。ほとんど全員が、子供のように泣いていた。われわれは駆けより、抱きあった。そして私は、われわれ撮影隊が、どれほど強いきずなで、どれほどしっかりと結ばれているか感じとった。
~同上書P335-336
こういうのを天の按配というのだろう。
人類の至宝たる傑作はそうやって残された。
海童道宗祖の「神秘の竹の音―前衛と古典」を聴いて思ふ
海童道(わたづみどう)
異常な緊張感
