霧雨の心地良さ~ラヴェル&ドビュッシー

霧雨の心地良さ。
7月とは思えぬ涼しさと静けさよ。豪雨でもなく澄み切った快晴でもなく、つまり、100でも0でもない「ファジー」な状態が僕は好き。自然とは何とアナログなのだろう。
人間というもの、時には「ま、いっか」という曖昧な姿勢、思考が大事。集中力の高い人々は、成果を容易く挙げるが、一方で常に緊張を強いられる。どんな時も結果に結び付けなきゃというプレッシャーと闘っている。
人間たるもの、「完璧」はあり得ない。どこか「抜けているところ」があって「人間らしさ」を醸し出す。
「心配しなくても何とかなるだろう・・・」、いかにも無責任に聞こえる言葉だが、天や自然に身を委ね(とはいえ、何もしないわけではない。やるべきことは徹底的にやるという前提)、「人事を尽くして天命を待つ」的生き方がやっぱり理想なのだろうな。
霧雨は素敵だ。

そんな曖昧模糊とした音楽は、いわゆるフランス印象派の音楽ども。ドビュッシーやラヴェルが開いた扉にこそ真の「自然の神秘」が宿る。

ラヴェル:
・序奏とアレグロ
・亡き王女のためのパヴァーヌ
・ヴァイオリンとチェロのためのソナタ
ドビュッシー:
・シランクス(パンの笛)
・フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ
・ビリティスの歌
カトリーヌ・ドヌーヴ(朗読)
アンサンブル・ウィーン=ベルリン(1989.8&1990.3録音)

タワーレコードのヴィンテージ・コレクションからの1枚。かつての名盤が何と1,200円(良い時代になったものだ)!!ドビュッシーへの追悼曲であるラヴェルのヴァイオリンとチェロのためのソナタは多分初めて聴いた。これほどまでに涙に濡れ、しかも、自身と先輩作曲家が切磋琢磨するように2つの弦楽器が寄り添い、競いする様が見事。そして、ドビュッシーの最晩年のソナタ、あるいはシランクスというフルートを使った作品の何とも気怠いファジーな感覚にようやく開眼する(そういえば、「牧神」から既にドビュッシーにとって横笛はなくてはならない楽器だ。フルートの音色というのはフランス語の語感に近いのだろうな)。
さらに、この音盤の白眉である「ビリティスの歌」。何とカトリーヌ・ドヌーヴが語りを任されている。

第7曲「朝の雨」~ピエール・ルイス
夜は消える、星は遠ざかる
ここに、最後の官女たちが
恋人たちを連れて帰ってくる
私は、朝の雨の中で
砂の上に詩を書きつける

木の葉にはきらめく雨の雫がいっぱい
流れが小径を横切って
泥や枯葉を運んでゆく
雨の一粒、一粒が
私の歌に穴をあける

ああ!なんて寂しい独りぼっちの私!
(濱田滋郎訳)

何て自然体!!
何と美しい!!


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。

瞬間思い浮かんだ、最近目にしたドナルド・キーンさんの言葉。

・・・・・・日本語の言葉の中にある“曖昧さ”の中にこそ、多くの人が魅せられる理由があるのではないかと思います。西洋の伝統では欠点とされる曖昧さも、日本の古典文学の美徳です。曖昧さは事実を超えた深い解釈を生み、限りない世界をわれわれ読者の前に開いてくれます。豊かさの表れであり、それを味わうことも日本の古典文学を読む大きな楽しみの一つ。・・・・・・

・・・・・・源氏物語を執筆した紫式部の最大の成功は、読者が共感できる登場人物を作中にたくさん描いたことだと思います。人間だからこそ、欠点もあれば嫉妬心も持っている。そして、鮮やかに描かれる愛情、希望、信仰心は万国共通で時代さえも超えています。今日まで世界中の多くの人がこの物語を今日まで愛し続ける理由は、ここにあるのではないかと私は考えます。・・・・・・

ドナルド・キーン名誉博士講演会「国際化時代における日本古典文学の可能性」2012年5月25日 (読売新聞より)

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。
ドナルド・キーンさんは日本人以上に日本人のようですね。
本当に素敵です。
「曖昧さ」、「詫び寂」・・・、日本文化に潜むいろいろについてもっと勉強してみたいとあらためて思います。
ありがとうございます。

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