聴衆不在のマスターベーション的音楽

なるほどと気づいたシューベルトの音楽のもう一つの側面。例えば、室内楽作品などにその特徴がよく現れるように僕は感じる。僕は演奏者ではないから実際のところは不明だけれど、極めて内側に向く、そう、ソロの場合は演奏者が自身と向き合い、デュオの場合は互いに意識を向け合い、トリオ以上の編成の場合も演奏者が互いに意識を向け合って再生するように創造されているものなのでは。誤解を怖れずに言うのなら、そこに聴衆は存在しない。そんなものはどうでもいい。少なくともシューベルトが音楽を生み出す時、それを聴く人々のことなんて頭になかったのでは。自身の想念から流れ出る音の連なりをただそのまま次から次へと記号化する、ただそれだけ。そんなことを考えた。

ならば、シューベルトが親しい友人たちを囲んで小さな音楽会を開いたという「シューベルティアーデ」は何と説明するのか?
あくまで「ごく親しい限られた友人」が対象なんだと僕は想像する。演奏者が互いに意識を向け合うのと同じように、作曲者が自分を囲む友人一人一人と深く対話するかの如く、しかし愉しく、時に哀しみを誘い、催されたのでは・・・。よって現代のような不特定多数の聴衆を相手にするようなコンサートではなかったろう・・・。
シューベルトの音楽は孤独だ。独り静かに音楽に向かうことで様々な内側への気づきが表出する。

彼は自分といつも闘っていた。
どの音楽のどの瞬間も自分との厳しい闘争であり、あるいは自身への慰めでもあり、または自身のための喜びの音楽なのである。聴衆不在のマスターベーション的音楽(決して悪い意味ではなく。しいて言うなら神との交信か・・)。それならば延々と繰り返される旋律を聴いても納得がゆく。

今宵もシューベルト。

シューベルト:
・幻想曲ヘ短調D940
・3つの軍隊行進曲D733
・ロンドニ長調D608
・ロンドイ長調D951
・2つのトリオをもつドイツ舞曲と2つのレントラート長調D618
マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)
フセイン・セルメット(ピアノ)(1987.9録音)

ピリスはとても難しい音楽家なのだと。噂ではとても自分勝手で、気が向かないとリハを放っぽり出し、どこかに消えてしまうらしい。
しかし、一たび彼女が音楽に対峙するととてつもない神がかった演奏になる。
このシューベルトもそう。セルメットとのデュオ。この時、彼女の頭の内にあるのはシューベルトの音楽とセルメットのこと。この録音を聴く一般大衆(僕を含めて)のことなんてもちろん彼女は考えていない(だろう)。この没入具合が音楽を一層高みに持ち上げる。
何という愉悦、何という悲哀。


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