クナッパーツブッシュの「パルジファル」(1951年盤)

肌寒くなり始めの今の季節、そろそろブラームスあたりが恋しくなるのだが、今年は一向にそういう気分にならないと思いながら、今朝フルトヴェングラーの指揮するブラームスを少々聴いた。粘着質の、あまりに指揮者の想念が音の内側と同化した常軌を逸するブラームスだが、それこそ繰り返し何度も耳にしてきた音盤だということと、何年ぶりかで久しぶりに耳にしたことも手伝って、朝っぱらから大いに感動した。第3交響曲。その続きで「ドイツ・レクイエム」も冒頭数分を聴いたが、こちらはちょっと辛かった。この音楽には静けさと透明感が欲しい。その点、フルトヴェングラーの解釈はあまりに人間臭く、色気が過ぎる。

宗教音楽、あるいは宗教的な音楽には「聖なる何か」を感じたいと思う僕がいる。
表面上俗っぽくてももちろん良い。音楽の奥底から「何か偉大なものへの畏怖の念」が感じとれるならばそれは「聖なるもの」だ。いや、それこそが聖俗のバランスがとれた究極の芸術なのでは・・・。

クナッパーツブッシュがバイロイトで演奏した「パルジファル」の第3幕(このYoutube映像は日本語対訳がついていてなかなか便利)だけを繰り返し聴いた。「パルジファル」こそ、俗人ワーグナーが「聖なるもの」を秘め、その解釈を後世の人々に託した遺書だと考えるが、あまりに巨大すぎ、あまりに深遠に過ぎ、「答」が僕にはいまだ見えてこない。おそらくそれは一生涯かけて追い求める命題なのだろうけれど。
そういえば、その昔、ベジャール・バレエ団が上野で「ニーベルンクの指環」を上演した時、二晩ほど連続で鑑賞した(と記憶する)。いろいろと物議を醸した演出だったけれど、僕はとっても感動した。「黄昏」の最後の場面、「ブリュンヒルデの自己犠牲」から「愛の救済」に至るシーンを終え、幕が下りるのかと思いきや、「苦痛は私の目を開かせた。私は世界の終りを見たのだ」というナレーションと共に出演者全員が床に座って凝視するうちに、「パルジファル」第1幕前奏曲が・・・。
「ぬおっー」、頭が真っ白になった。
震えが止まらなかった。

我々が外に観る「世界」は幻想だ。神々の没落をきっかけに「内なる眼」を開かれた「私」は答が外にあるのでなく内にあるのだと悟る。それこそが聖愚者パルジファルの真の姿なり。(最後に合唱が歌う「救済者に救済を!」という言葉はいろいろと臆測されるが、パルジファルその人を指すのだろう)

ワーグナー:舞台神聖祝典劇「パルジファル」
ジョージ・ロンドン(アンフォルタス、バリトン)
アルノルト・ファン・ミル(ティトゥレル、バス)
ルートヴィヒ・ヴェーバー(グルネマンツ、バス)
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(パルジファル、テノール)
ヘルマン・ウーデ(クリングゾル、バス)
マルタ・メードル(クンドリー、ソプラノ)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団(1951Live)

歌手の陣容や指揮者の内面的充実度から想像するに、有名な1962年のフィリップス盤以上に深く永遠の解釈であり、演奏だと僕には思える。それは、モノラル録音という条件を越え、バイロイト祝祭劇場の音響がそのまま聴く者の耳に届くかのような錯覚を与える。
今日のところは第3幕のみしか聴いていない。それでも、思わず襟を正してしまうほどの緊張感と厳粛さと。
クナの47回目の命日に・・・。


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