シュヴァルツコップ ルートヴィヒ クラウス タッデイ シュテフェク ベリー ベーム指揮フィルハーモニア管 モーツァルト 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588(1962.9録音)

歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」の不運。
作曲の頃は、経済的困窮のど真ん中だったらしい。

貴族が圧倒的に多数を占めるウィーンの洗練された聴衆は、1786年以来、《フィガロ》によって侮辱を受け、《ドン・ジョヴァンニ》というこってりしすぎた料理を味わって以来、さらにモーツァルトの作曲仲間の強まる陰謀活動も原因となって、以前には長年にわたってほめそやしてきたこのピアノ協奏曲の作者を突然見捨ててしまった。そのため彼は1788年からその死まで、実生活では常に破滅の際に立っていた。かつての〈神童〉の慢性の金づまりと深まる社会的孤立はじわじわと影響を及ぼし、その結果モーツァルトの生命力はあんなにも早く涸れつきてしまったのであろう。
アッティラ・チャンパイ&ディートマル・ホラント編「名作オペラブックス9 モーツァルト コジ・ファン・トゥッテ」(音楽之友社)P205

モーツァルトの、時代の何歩も先を行く創造力が、結果、彼を困窮状態に追いやったのだろうと思う。何ごとにおいてもほど良さ、ちょうど良い、慎ましい状態が本当は理想的なのである(しかし、天才の場合にはそうはもいかない)。

かのベートーヴェンは、次のように言ったそうだ。

《ドン・ジョヴァンニ》や《コシ・ファン・トゥッテ》のようなオペラは私には作曲できないでしょう。こうしたものには嫌悪感を感じるのです。—このような題材を私が選ぶことなどありえません。私には軽薄すぎます。

さすがに「楽聖」と呼ばれた人だけある。何より、ベートーヴェンは台本を重視し、台本の選択に時間と労力をかけた。それゆえかどうなのか、この歌劇は19世紀にはほとんど無視されるものに陥ってしまっていた。当時の欧州を代表する評論家だったハンスリックは次のように書いている。

私は《コシ・ファン・トゥッテ》は、コンサートホールでは実に魅惑的に作用するいくつかの魅力的な歌があるにもかかわらず、上演するにはもはや生命力がないと思う。その理由は一部は観客に、一部は作品そのものの中にある。われわれ自身の中というのは、音楽がモーツァルト以来くぐり抜けてきた急激な成長および燃焼過程で、われわれは新しい、より高められた欲求を身につけたからであり、ベートーヴェンやウェーバーおよびその後継者を通じ、オペラにおいてより激しく、鋭く、活気のある音楽になじんだからである。それは抵抗しえない自然過程であった。モーツァルト自身、《ドン・ジョヴァンニ》、《フィガロの結婚》そして《魔笛》では最高の劇的生命力を持った、比類なく心をそそる音楽をわれわれに与えていた。これらのオペラに今日でも飽くことなき陶酔をもって殺到するこの観客を、未成熟ということはできない。彼らといえども自分たちの寵児モーツァルトのもっと程度の低い作品には冷淡だからだ。〈われわれ〉のせい、というか、時代が《コシ・ファン・トゥッテ》の中の数多い、かつては効果のあった部分を、今日のわれわれにとっては古びてしまって形式的に聞えるようなものにしてしまったのである。しかし、また別の根本的な原因が作品自体にあり、作品が現れるやいなや実にはっきりと感じとられ、あきらかにされたのである。
(エドゥアルト・ハンスリック《コシ・ファン・トゥッテ》—もはや生命なく)
~同上書P252

少なくとも19世紀においてはまったく人気のなかった歌劇であり、その原因の一つが台本の拙さにあるとハンスリックも言うのである。
しかしながら、時代の移り変わりとともに、徐々に人々から受け入れられていく。
歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」にまつわるドキュメンテーション。

ちなみに、20世紀になって、リヒャルト・シュトラウスは書く。

《コシ・ファン・トゥッテ》はモーツァルトの劇における無類な傑作であるだけでなく、リヒャルト・ワーグナーの《マイスタージンガー》以前の喜劇文学全体の精華でもある。《コシ・ファン・トゥッテ》が今日にいたるまで《フィガロ》、《ドン・ジョヴァンニ》そして《魔笛》のように一般の正当な評価を得られなかった理由はなんであったのだろうか。おそらく、聴衆の純粋に音楽的な要求にしたがって歌手たちがオペラの音楽的様式の困難な表現にのみ注目していた時代にはこうしたモーツァルトの喜劇の独特なパロディ的様式は、音の詩人や台本の詩人が意図したような方法では演劇論的に通用しなかったのだろう。この様式をもっとも鋭く表現している曲目、第1幕のドラベルラの変ホ長調アリア、第2幕のフェルランドの変ロ長調アリアおよびグリエルモのト長調アリアは、大きな、それに結びついた、きわめて魅力的なレチタティーヴォとともに、常に削除されてきた。それらはあきらかに純粋に音楽としてはあまり価値のないものとみなされてきたのだが、その反面、性格描写の面ではそれだけにいっそう興味深く、重要なものである。
(リヒャルト・シュトラウス「モーツァルトの《コシ・ファン・トゥッテ》」)
~同上書P263

「静」のモーツァルトが聴こえるこの傑作を、僕は愛する。
(アンサンブル中心という特長があるが、動的な華美さを排した静かな、沈黙の(?)美しさが全編を支配する)
(何より裁判根のモーツァルトの創造した音楽の、無駄のない、純粋な響きが堪らない)
余計な細工をせず、自然体で、かつモーツァルト愛だけで、作品と向き合った演奏はどれもが素晴らしい出来を示す(かつて聴いたジョナサン・ノットによるコンサート形式での上演は見事だった)。

ノット指揮東響のモーツァルト 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588(演奏会形式) ノット指揮東響のモーツァルト 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588(演奏会形式)

歴史的名盤を聴く。

・モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588(1790)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(フィオルディリージ、ソプラノ)
クリスタ・ルートヴィヒ(ドラベルラ、メゾソプラノ)
ハンニー・シュテフェク(デスピーナ、ソプラノ)
アルフレード・クラウス(フェランド、テノール)
ジェゼッペ・タッデイ(グリエルモ、バス)
ワルター・ベリー(ドン・アルフォンゾ、バス)
カール・ベーム指揮フィルハーモニア管弦楽団&合唱団(1962.9.10-18録音)

脱力のカール・ベーム。
余計な「我(が)」を横に置き、作品を自然体で表現しようとする様子に感無量。
歌手陣を引き立て、アンサンブルの素晴らしさを前面に押し出そうとする指揮に、この録音が実に普遍的で、永久保存版の価値をもつものであることを思う。

ヤノヴィッツ ファスベンダー グリスト プライ シュライアー パネライ ベーム指揮ウィーン・フィル モーツァルト 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588(1974.8.28Live) ベーム指揮フィルハーモニア管のモーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」K.588(1962.9録音)を聴いて思ふ ベーム指揮フィルハーモニア管のモーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」K.588(1962.9録音)を聴いて思ふ

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