
1743年2月19日、ルイジ・ボッケリーニ、イタリアはルッカの街に誕生。
個人的に、とても愛すべき作曲家。
特に、1795年に出版された弦楽五重奏曲ハ短調作品51-2(G.377)は僕の愛聴曲。
かつて黒田恭一さんがパーソナリティを務めたNHK-FMの「20世紀の名演奏」でテーマ音楽として使用されていたかの音楽の、特に哀愁を帯びた主題を持つ第2楽章アンダンティーノ・コン・イノセンツァは幾度聴いても心を締めつけられる思いがする。
フィルハーモニア・アンサンブル・ベルリンのボッケリーニ五重奏曲集(1989.6録音)を聴いて思ふ
ボッケリーニの音楽は人を前向きにする 久しぶりにフィルハーモニア・アンサンブル・ベルリンの録音を聴いた。
本当に美しくも哀しい、素敵な音楽だ。
この音楽があるだけでボッケリーニの名は永遠であり、不滅であるように僕は思う。
さて、しかし、人が簡単に美意識とか美的感覚とか云っているものほど規定しがたいものはない。美という物差がどこにもあるわけではない。絶対的な美というものがない以上、絶対的な醜というものもないにちがいない。そんなことはわかりきったことである。
われわれの美意識は、歴史と諸種の体系に守られて、かなり精妙なものになっていることは確かである。それに新らしい知識がさらに詰め込まれて、それを豊富にし、増大し、増幅するから、一人の人間の美的判断力のうちには、根深い肉慾から、皮相な新知識にいたるまでの、広大な領域がひろがっている。新らしい美に驚かされることを期待するのは、この味噌も糞も一緒くたにしたような美意識の、当然の衛生学であり、自己革新の要求である。しかし新らしい領土はたちまち併呑される。不快な違和感はすぐに忘れ去られ、それも亦清澄な美の一種になり、やがて飽きられる。この経過はいかにもエロティックの法則によく似ている。それがわれわれが自分の持っている(と思しい)美意識を、一つのメカニズムのように感じる所以である。こんなメカニズムが精妙に働き、あたかも脳髄の組織のように、臨機応変、対象に応じてあらゆる反応が可能になるほど練磨されるにいたると、それでもわれわれは物足りなくなる。そこで美意識のメカニズムは何物であろうか? こちらのとりだす幾千の物差に永遠に合わない尺度を持ち、こちらの美的観点に永遠に逆らいつづけ、どんな細部でも美からうまく身をそらし、永久に新鮮な醜でありつづけるような存在物、・・・こんなものがあったとしたら、それは一体何物であろうか?
「美に逆らうもの」
~佐藤秀明編「三島由紀夫紀行文集」(岩波文庫)P218-219
人間が2つの眼で外を見ている以上、絶対的真をとらえることはできないだろう。
そもそも美醜が対立した概念である以上、相対の世界にしかない尺度だからだ。
ボッケリーニの音楽が美しいと感じるも人の勝手、あるいはまた醜いと思うのも人の勝手だ。しかしながら、僕の心の琴線には響く、ラジオから流れてきたあの音楽を初めて聴いたその日から僕を虜にした音楽は、僕の中では絶対だ。
(もちろん他人の中では絶対ではない、そんなことはありえない)
