カラヤン指揮ベルリン・フィル ベートーヴェン 「ウェリントンの勝利、またはヴィットリアの戦い」(1969.4録音)ほか

いまだ読破完了しない「ベートーヴェン像再構築」を丁寧に読みながら思うこと。著者の大崎滋生さんのあとがきを読むにつけ、何事も慌てず騒がずじっくりと、そして、従来とは異なる観点で物事を見る、また取り組むことの重要さを思う。

書物は5回も6回も読み、またはノートを取って咀嚼して、ようやく自身の知識となる。初めて読むとき自分が重要と思った個所には線を引き、2度目、3度目では線が引かれた前後を中心に読み返せば読書効率がよい、と学生たちには指導していた。
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築3」(春秋社)P1305

この大著がどれほどの時間と労力を費やして示されたものかがこういう言からわかる。そして、新たな視点を獲得するべくタイトルに「再構築」と付けられた理由も以下、そのプロセスに明らかだ。

関心が次第に社会的問題に向かったことを自己分析してみると、こうした両面があったような気がする。そして、作曲家を「作曲した人」としか見てこなかったのは作曲家・作品中心主義史観の問題であることに気づいていった。
~同上書P1302

大崎さんの研究成果は実に的を射ていて、斬新。
例えば、ベートーヴェンの生前、最も人気のあった作品が「ウェリントンの勝利」、通称「戦争交響曲」であったことは周知の事実だが、著者の、事実を具に研究し、この凡作にまつわるある側面をあぶり出す方法に僕は膝を打った。

最初のエールの交換はそれぞれの国民的歌謡をオーケストレーションしただけだが、〈戦い〉の部分に入ると、双方の軍の威嚇で始めて、イギリス軍の圧倒的勝利と意気消沈したフランス軍の敗北が写実的に描かれる。そこまで細かくメルツェルが指示したにせよ、細部はベートーヴェンが自発的に作曲したにせよ、彼は依頼主の意図に沿って努めたと言うべきであろう。この作品をそのように捉えると、ベートーヴェンらしくないという印象を生じさせるのは彼の職人技が成さしめたところ、と言える。ではどちらに著作権があるかという段になると、近年、日本のマスコミで騒がれた創案者と作曲者の争いと状況が似ており、既視感がある。
~同上書P855

「戦争交響曲」が凡作でなく、ベートーヴェンの天才的職人技によって生み出されたある意味傑作だと理解してから聴く印象の変化よ。人間の常識や思い込みというものが、どれほど作品の真実を捉えることを拒むのか、実に興味深い。

ベートーヴェン:
・序曲「コリオラン」作品62(1807)(1985.6録音)
・大序曲ハ長調「命名祝日」作品115(1814-15)(1990.10録音)
クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
・ゲーテの悲劇「エグモント」のための音楽作品84(1809-10)(1991.12録音)
シェリル・ステューダー(ソプラノ)
ブルーノ・ガンツ(朗読)
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・「ウェリントンの勝利、またはヴィットリアの戦い」作品91(1813)(1969.4録音)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

映画音楽さながらの、カラヤンの「戦争交響曲」にあらためて思う。
大衆の支持を得た作品を、より一層人々の心を掴むにはどうすれば良いのかをカラヤンは知っていた。各々の楽器の響きは錬磨され、外面はとことん美しい。そして、勝利したイギリス軍を描く場面の朗々たる余裕と勇猛果敢、また、敗者であるフランス軍を描く場面では、これ以上ないほどの悲哀を込めて奏される様子に、目を閉じ指揮をするカラヤンの網膜に映る光景の鮮明さを知る。

続いて、あらためてウィーン・フィルを振ったアバドのベートーヴェンに、自然体で、邪気のない美しさを思う。序曲「コリオラン」などは、もう少しデモーニッシュな音調を放出しても良さそうなものだとも思うが、これだけ力の入らない演奏に今の僕は逆に好感を覚える。さらに、いつぞや記事にしたカラヤンの「エグモント」全曲が、派手ながら柔らかい、色気ある演奏だとするなら、アバドのそれは、企図のない質実剛健なもの。今は亡きガンツのニュアンス豊かな朗読の愛らしさ、何よりステューダーの歌の芯のある力強さ。

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