中期のベートーヴェンの音楽をいろいろと聴き込んでゆくうちに、歌劇「フィデリオ」のことが思い出された。この作品、1805年に「レオノーレ」として初演されるも不評で数回しか舞台にかけられずお蔵入り。その後、1806年に改訂を加えて再演されるもやはりいまひとつ。で、それから8年が経過した1814年になって「フィデリオ」として蘇り、ようやく聴衆の拍手喝采を得るというベートーヴェンにしては「不思議な」経路を辿って認知された作品なのだが、単に評判の良し悪しだけでベートーヴェンが引っ込めたり、思い出したように改作したりしたとは考えられない。
もともとフランス革命下の自由精神が横溢する世相の中で書かれたものだし、フリーメイスンであるベートーヴェンが何らかの意図をもって(つまりモーツァルトの「魔笛」のように)創作したのだろうと思えてならないのである。
何より「フィデリオ」=「レオノーレ」は救済と解放がテーマになっているし(このあたりはワーグナーの楽劇にも通じてゆく)、女性が男性を救うという内容自体、2012年のアセンション云々と言われる今の時代にぴったりだと思うので、尚更そういう思いが湧き出づるのかもしれない。
このドラマのうちに秘められる「何か」を掴んでみたいと思う今日この頃(笑)。ちょうど手元には長らくきちんと聴いていなかったガーディナーの「レオノーレ」1805年第1稿と、マルク・スーストロなる指揮者による「レオノーレ」1806年第2稿があるので「フィデリオ」最終決定稿とあわせて比較検討してみようと目論んでいる(しかし、なかなかまとまった時間がとれないので結論めいたものはいつ出るのかわからない・・・笑)
ところで、ベートーヴェンの師であるヨーゼフ・ハイドンのことについては通り一遍のことくらいしか知らない。100曲以上ある交響曲も全部を聴いたわけではない。もちろん80数曲に及ぶ弦楽四重奏曲も。
俄然ベートーヴェンに興味の矛先が向いている今、ついでにハイドンについてもいろいろと探ってみようと思うが、やっぱり例の有名なオラトリオ「天地創造」と「四季」あたりを徹底的に攻めた方が良いのだろうか(どうもそのあたりが気になるし、ミサ曲あたりも面白そうだ)。
いずれにせよ一朝一夕に「何か」が見えてくるものでもなし、じっくり腰を据えていろいろと繙いていこう(これだからクラシック音楽というのは興味が尽きない。底なし沼の如く)。
「戦時のミサ曲」を聴く。
1796年、ハイドン64歳時の円熟の作。前年の第104番、「ロンドン」シンフォニーを最後に彼は交響曲の筆を折るが、いかにもその手法がこのミサ曲に引き継がれているようで、大変に交響的な、どちらかというとコンサート向けの作品のように思う。
「グローリア」の中間部アダージョのチェロ独奏など、メロディスト、ハイドンの独壇場、涙が出るほど美しい。それと「クレド」。ここにはモーツァルトの「魔笛」と通ずるものを感じる。さらに「アニュス・デイ」。「太鼓ミサ」と異名を持つこの音楽の真骨頂はこの終曲なのだろうか。解放的で前向きで。
こいつも当然フリーメイスンの思想下にあるのかな・・・。