音楽は時間と空間の芸術である。作曲家の手によって記譜する時に「二次元」に変換されることになるが、特に、会ったこともない大昔の作曲家の意志を楽譜だけで完璧に再現するのは大層難しいはずだ。
いつ何の本で読んだのか記憶が定かでないが、ベートーヴェンは創作の際、必ず全体像を明確にイメージしながら細部を推敲し、作品を完成させていったという。しかも、各楽章を有機的に絡め、つまり「つながり」を最重視し、そして時間の経過とともに楽想が「変化」し、徐々に頂点を築き上げることに主眼を置いていた。具体的な表現は忘れたけれど、そんなようなことが書かれてあったと思う。
まるで「システム思考」だと思った。
おそらくどんな分野においても天才といわれる人たちは、あるいは一定の業績を上げる人たちは皆同じような資質、思考回路をもっているのだろうと思われる。
そして、そのベートーヴェンの作品を、たった今生れたものであるかのように、かつデモーニッシュに再現した指揮者の最右翼がヴィルヘルム・フルトヴェングラーだと僕は思うのだけれど、昨日ハンス・クナッパーツブッシュの「運命」交響曲を聴いていて、なるほどフルトヴェングラーとは全く正反対のアプローチでありながら、実に彼も全体最適と部分最適の両方を意識し、「つながり」と「時間の経過」を重視して芸術を創造していたんだと再認識した。
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1953.12.17Live)
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.5.9Live)
クナッパーツブッシュの指揮する「エロイカ」は僕の手元には2種。1951年5月のブレーメン・フィルとのものと1953年12月ミュンヘン・フィルとのもの。わずか2年半の違いながらその解釈の違いは歴然。最もわかりやすいのがテンポ。クナッパーツブッシュの場合、1960年代になるとテンポが遅くなり、一層悠然とした演奏が主流になるのだけれど、1951年盤は晩年を髣髴させるほどスピードは遅く、ほぼインテンポで微動だにしない姿勢を貫く怪演。一方、ミュンヘン・フィルとのものはテンポを揺らし、推進力抜群の若々しい演奏が繰り広げられる(といっても決して快速ではない)。それと、もちろん会場や録音の関係もあろうが、前者はティンパニの轟きや金管の咆哮など怪物クナの面目躍如たるものであるのに、その意味ではミュンヘン盤は若干大人しい(気がする)(第2楽章のトリオのクライマックスのところでも気のせいかディミヌエンドぎみになるし)。
根っからのクナッパーツブッシュ・フリークはブレーメン盤を推すだろうけれど、今の僕はどちらかというとミュンヘン盤に愛着を覚える。何より流れが「自然」で、それでいて要所要所の決めが最適なところが良い。すなわち各楽器のパートが十分に「上手い」ことと、指揮者の意志が完璧に奏者に行きわたり、極めてバランスの良い「エロイカ」交響曲が現出しているのである(ブレーメン盤は残念ながらホルンなどソロ、つまり「部分」がいまひとつ)。
ということで、前述のベートーヴェンの「方法」を考えるとミュンヘン盤に一日の長がある。
しかしながら、両方捨て難し。クナの個性を重視するなら断然ブレーメン盤。おそらく、このオケにおいては指揮者のやり放題。一方のミュンヘン盤においてはオーケストラの志向も十分反映され、いかにクナッパーツブッシュといえども「勝手には」できなかったのだろうと思われる。2種の比較が極めて興味深い。
[…] ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ブレーメン・フィルの「エロイカ」を評して、浅岡弘和氏はかつて次のように書いた。 […]