音楽史の上でシューベルトはユニークな「点」である

僕は父が30歳の時に生まれた。父は祖父が34歳の時の子だ。すなわち、祖父と僕との年齢差は64歳ということになる。10年ひと昔というくらいだからこの世代のギャップというのは大変なもの。戦前生まれの父の感覚と僕のそれとは当然違う。ましてや1900年生まれの祖父とのそれとなると、20世紀という激動の時代の急速な変化を考慮すると祖父と僕との間には恐ろしいまでの「差」が存在したはずだ。

あくまで直感的、感覚的なものなのだけれど、フランツ・シューベルトの「世界」が当時の他の作曲家に比較して極端に「閉ざされている」のではと思った。
ベートーヴェンやモーツァルト、あるいはハイドン周辺を聴き、いろいろと勉強してゆくうち、そういえばシューベルトもほぼ同時期にあの街を歩いていたはずなのに、何だか彼の人生が別のラインで動いているように思われ、ベートーヴェンとも多少の交流はあったはずだし、シューベルト少年期にハイドンは作曲の筆を折り、公にはほぼ活動は停止していたものの大御所としての存在感は絶大だったであろうことをあわせて考えてみても、やっぱりシューベルトは別の「流れ」に乗っていたように思われてならない。彼が10代の頃に創作したリートの傑作たちの革新性、晩年の、ほとんど浪漫的要素が前面に出る大作たちはその少し前の作曲家たちのものとは随分乖離する。ベートーヴェンにも既にロマン派的革新の要素はあったけれど、やっぱりシューベルトこそが次の時代への橋渡し役であり、彼の音楽史上の重要性は計り知れないものだと思ったのである。

そうか、それは当り前だ。ハイドンとは僕と祖父との差、ベートーヴェンとは僕と父との差くらいあったのだから・・・。歴史の傍観者でなく、歴史のど真ん中に意識を置いてみると「事実」が直接的に見えてくる。歴史の上をまるで当事者のように歩くことは重要だ。というより、時間軸や空間軸を超えて認識しないことには「本当のところ」は絶対に見えてこない。

帰路、そんなことを考えたものだから久しぶりにシューベルトが聴きたくなった。
乾燥した冷たい空気にさらされた心身を温めるためにも、彼が最晩年に作曲した、信仰心と光に満ちたミサ曲を聴いてみたくなった。

シューベルト:ミサ曲第6番変ホ長調D950
ルート・ツィーザク(ソプラノ)
ヤルト・ヴァン・ネス(アルト)
ヘルベルト・リッペルト(テノール)
ヴォルフガング・ビュンテン(テノール)
アンドレアス・シュミット(バリトン)
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮バイエルン放送交響楽団&合唱団(1995.4.24-28録音)

僕はこれまで、古典派とかロマン派とか、後の世の学者たちが勝手に決めたカテゴリーにだけ基づいて音楽を聴いてきたのかも。なぜなら、シューベルトについてもベートーヴェンやハイドンと一括りにしてしか考えていなかったから。いや、厳密に言うと、彼はほとんどロマン派に近い創造者だけれど、でも、何だかベートーヴェンとは「ひとつ」として認識してしまっていた(それは、アナログ盤当時のメジャーなカップリングのひとつとして「運命」交響曲と「遺憾性」交響曲が表裏だったことも影響しているのだろう)。

最晩年のミサ曲は、それ以前のミサ曲と比べて一般的には保守的な作風に戻ったことを指摘されるが、僕的にはブルックナーの音楽に近い、19世紀後半の空気を感ぜずにはいられない(特にこのジュリーニの演奏は)。シューベルトは決して守りに入ったのではない。常に前進、チャレンジという意識を持っていた(その証拠に余命わずかなこの時期からバッハやモーツァルトを規範に自身の弱いと自覚する対位法について研究を始めているのだから)。ベートーヴェンの意志以上に、おそらく・・・。

モーツァルトと同様シューベルトの存在は音楽史の上でも「ユニークな点」だった。真に孤高の存在だった。故に夭折しなければならなかった。祈りの音楽をバックにそんなことたちが頭を過った。


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