アファナシエフのシューマン

ヴァレリー・アファナシエフのショパンやブラームスが好きで、一時期一辺倒で聴いていた時期があった。DENONからリリースされているノクターン集やマズルカ集、あるいは後期小品集などは今でもそれらのベスト演奏のひとつだろうと考える。
当然、演奏会にも通うわけで、何年か前に「展覧会の絵」をやるというので喜び勇んで出かけ、何だかつまらなくて落胆して以来、一気に熱が冷め、それから彼の音盤を聴くことも滅多になくなった。
あのムソルグスキーがなぜよくなかったのか?寸劇を交えてのあまりに文学的過ぎる演出、内容だったから。少なくとも作曲者自身の頭の中には純粋に音楽しかないはずなのに、それを頭でこねくり回して無理矢理ストーリーを作り上げた、そういう違和感があったのだと思う。

アファナシエフはともすると演奏においても考え過ぎで、それが恣意的になり、全く感動すら覚えないという事態になり得る、そんな可能性を持ったピアニストである。でも、さすがにブラームスやショパンの音楽においてはさすがにそういう要素はなかったとみる。もちろん聴き方によっては「左脳的」過ぎるともとれるが、僕にとっては極めて音楽的で、感動的。そのことは今聴いても変わらない。

ところが、シューマンにおいてはやっぱり無理矢理感が否めない。
おそらくシューマンの音楽そのものに文学的ニュアンスが含まれているということもあるのだろう。本当は作曲者の頭の中にある「言葉」や「思考」は無視して、純粋に音楽だけを響かせれば途轍もない演奏になるだろうに、やっぱり彼は考え過ぎるのである(シューマンの場合は激情と暗鬱が交互に入れ替わるところに妙味があるのだけれど、そういう感情的な部分がどうにも奥に引っ込んでしまうところがもったいない)。

シューマン:
・クライスレリアーナ作品16
・森の情景作品82
ヴァレリー・アファナシエフ(ピアノ)(1992.3.5-8録音)

これは本当に「クライスレリアーナ」だろうか?
一般的な節回しとことごとく異なる。楽譜のテンポ指定もおそらく無視。初めて聴いたとき、一体何の曲なのだか一瞬見失った。

今僕の中にあるこの音楽、何と美しい旋律!この前の手紙から後で、新しいのがノート1冊分できました。「クライスレリアーナ」と名づけるつもりです。君と、君への想いが主役を果たしているのです。(1838年4月ロベルトからクララへの手紙)

そう、「クライスレリアーナ」はクララへのラブレター。なのに、何て小難しい(笑)。
ところで、一方の「森の情景」。作曲者が文学作品から霊感を受けているせいかアファナシエフの素質とぴったりで、こちらはなかなか聴かせる。
第7曲「予言の鳥」の神秘!そしてその後の第8曲「狩りの歌」の発する喜びと第9曲「別離」の清々しさ。自然に触れること、自然とともに在ることの意味。音楽を通じてそれらが見事に示される。(どちらかというとアファナシエフの解釈というより音楽そのもののもつ力か・・・)

作品82が作曲された1849年はシューマンの作曲家人生の中でも最も実り多い1年のひとつである。しかし、一方で、ますます精神疾患が彼の心身を蝕みつつある時期でもあった。しかし、そんなことは微塵も感じさせない充実した「音」が鳴る。


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