クーレンカンプのシューマンを聴く

基本的に僕は流行の小説などに飛びつくことはない。時を経て、ブームが去った後に(必要ならば)ざっと目を通す。天邪鬼なのである。ましてや音楽を主題にしたものなどは、若い頃は散々お世話になったけれど、まったく目を向けようともしない。

往復の車中で結構な時間を潰さなければいけないことがわかっていて、手持無沙汰だったのでぶらりと書店によってたまたま見かけた文庫本を買って車中で一気に読んでみた。奥泉光氏の「シューマンの指」
奥泉氏が永嶺修人に語らせる作曲家論で真に的を射た表現があったので膝を打った。そう、まさに僕が言いたかったこと。

「シューマンはね、突然はじまるんだ。ずっと続いている音楽が急に聴こえてきたみたいにね。たとえば野原があったとして、シューマンの音楽は、見渡す限りの、地平線の果てまでに広がっている。そのほんの一部分を、シューマンは切り取ってみせる。だから実際に聴こえてくる音楽は、全体の一部分にすぎないんだ」(講談社文庫104頁)

橋口正さんからロベルト・シューマンのヴァイオリン協奏曲の初演を記録したCD-Rを送っていただいた。1937年とは思えない驚くほど明瞭な音質。この演奏を聴いて、クララとブラームスがこの音楽の存在を知りながらお蔵入りさせたその理由が何とも解せない。ひとつには晩年の幻聴に苦しむ本人の姿を見ていたからだろうが、「音楽作品」としては第一級のもので、橋口さんが、ベートーヴェンのニ長調協奏曲とネガ&ポジなのではとご指摘されたように、楽聖のものに負けず劣らず各々の楽章に統一感があり、楽想も暗鬱ながら僕には微かな希望も聴いてとれる。

それともう一つ感じるのは、ブラームスのニ長調協奏曲との相似性。作曲者本人が自覚していたのかどうか、意識あってのことだったのかどうか、それはわからないけれど、師の最晩年の作品を封印する代わりに、ブラームスの中では忘れられない、深層に刻印された何かがあり、刷り込まれたものが何年という時を経て「表に出てしまっている」、そんな印象を受けるのである(いわば師の残したネガをポジ化して自身の作品として世に送り出したとでもいおうか)。ベートーヴェンの影響もさることながら、ブラームスにとってシューマンの存在というのは極めて大きかったということだ。

シューマン:ヴァイオリン協奏曲ニ短調
ゲオルク・クーレンカンプ(ヴァイオリン)
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1937.12.20録音)

確かに奏法は古い。でも、音の一粒一粒がこぼれるようなこの歌い回しに僕は感激した。
やっぱりこの音楽にはブラームスのコンチェルトの「種」がある。30数年前、好きで毎日のように聴き込んでいたブラームスのあの作品の「懐かしい響き」は実はロベルトに宛てられたものでなかったのだろうか。そんなことすら考えさせられた。

ダヴィッド同盟ノートに記された修人の言葉。
「シューマンは多かれ少なかれ職人的な修業を経たそれまでの作曲家とは違い、いわば素人のディレッタントであり、そんなところにも彼の天才はみてとれるのだけれど、なによりシューマンが素晴らしいのは、あれだけ音楽の魔に憑かれながら、彼が市民的な家庭人としての生き方を全うしたところにある」(講談社文庫261頁‐262頁)

なるほど、シューマンの天才や傑作を発見する能力は優れた「好事家」だったことに依るのだと。首肯。この小説、ミステリーとしては?だが、シューマン論として読むと非常に面白い。


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください