声の張りや色艶もそうだけれど、マリア・カラスの何より威厳と重みのある歌に感嘆の想いを禁じ得ない。
私に芸術の意味を教え、自分でそれを見出せるように導いてくれたのはセラフィンでした。熟達した音楽家で偉大な指揮者だったセラフィンは、洞察力にみちた教師でもあった―それもソルフェージュの教師ではなくて、フレージングやドラマティックな表現を教えてくれる教師よ。彼の教えと指導―つねに私とともにあるもの―がなければ、芸術の意味なんてわからずじまいだったかもしれないわ。彼は私の目を開かせて、音楽のなかのすべての要素に理由があることを教えてくれたんです。
~ステリオス・ガラトプーロス著/高橋早苗訳「マリア・カラス―聖なる怪物」(白水社)P515
芸術上の師であったトゥリオ・セラフィンの、彼女の声にまつわるエピソード。これほどマリア・カラスの音楽について見事に言い当てた言葉はないのだろう。
トゥッリオ・セラフィンは、カラスの声をきわめて簡潔に語った最初の人間かもしれない。私が単刀直入に、カラスの声を美しいと思うか、美しくないと思うかとたずねると、彼は即座にこう言った。「どの声だね?ノルマ、ヴィオレッタ、それともルチアかな?メデア、イゾルデ、アミーナの声もあった―ほかにもまだある。なにしろ、彼女の声は役ごとにちがっていたからね。私は、カラスの声を何種類も知っている。彼女の声が美しいか美しくないかなんて、考えたこともないよ。私にわかるのは、それがつねに申し分のないものだったということと、単に美しいだけではないということだけだ。」
~同上書P525-526
彼女は声楽家である前に、その役になり切る役者であったことは間違いない。
それゆえに、カラスの歌唱はどんなときも素晴らしいのである。
ところで、「ヴェスタの巫女」、「夢遊病の女」、「椿姫」、「アンナ・ボレーナ」、「タウリスのイフィゲニア」などの演出をしたルキノ・ヴィスコンティが1960年に応えたインタビューでのカラスにまつわる話が興味深い。
私が彼女に全幅の信頼を寄せたのは、タイミングをはかるたしかなセンス、申し分のない音楽の素質、舞台女優、悲劇女優としての才能の持ち主だからだ。・・・なにしろ相手はカラスなのだから。これ以外の方法で演出できる人間がいたらお目にかかりたいね。私は長年、俳優、ダンサー、映画スター、歌手と一緒に仕事をしてきた。これまでに演出したなかで、彼女が最も忍耐力とプロ意識にすぐれた芸術家であることはまちがいない。
~同上書P528
ヴィスコンティまでもがこれほどまでの絶賛の声をあげるのだから、マリア・カラスは文字通り不世出。
ミラノ・スカラ座のマリア・カラス
・ベッリーニ:歌劇「夢遊病の女」
―第1幕「親しいお友達の方々・・・何と平和で静かな日でしょう」
―第2幕「おお!もし私がただ一度でも・・・ああ、私はお前がそのように早く萎れるのを見ようとは思わなかった・・・ああ!今私を満たしている歓びは」
・ケルビーニ:歌劇「メデア」
―第1幕「あなたの子どもたちの母親は」
・スポンティーニ:歌劇「ヴェスタの巫女」
―第2幕「無慈悲な女神よ」
―第2幕「おお、不幸な人々を守護する女神」
―第3幕「いとしいお方」
マリア・カラス(ソプラノ)
トゥリオ・セラフィン指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団(1955.6.9-12録音)
全盛期のマリア・カラスの十八番の役柄は、いずれもが他の追随を許さない見事さ。
オペラのクライマックスでのアミーナのアリアの嘆きと、一転、喜びが情感豊かに歌われる様。また、メデアの叫びにも似た恐ろしいばかりの劇的な歌。そして、芯のあるジュリアの声は、健気でありながら信条をぶらさない彼女の生き様を直接的に表すもの。
「魔性」とは「純粋さ」に通じるのかもしれぬ。
そういうカラスも、世間でのイメージとは裏腹、とても純朴な女性だったようだ。嗚呼、マリア・カラスの舞台を観てみたかった。
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