ニコラ・ゴンベール:マニフィカト

歴史というのはそれを編纂する人の都合の良いように書かれているものである。
僕たちが教わってきた日本史や世界史というのは極めて狭い角度から、あるいは都合の良い観点から述べられているものに過ぎない。コロンブスのアメリカ大陸発見など、いわゆる大航海の時代の人間の行為は、裏を返せばヨーロッパ諸国の大侵略であり、大虐殺の歴史であるともいえる。十字軍にせよキリスト教徒の勝手な横暴だという見方もある。大英帝国のインド支配の歴史だってそう。実情を知れば知るほど寒気がする。人間とはまったく恐ろしい生き物である。

「赤い楯」を読み進むにつれ、世界の表裏、人間の表裏をまざまざと直視することになり、いろいろと考えさせられる。ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」でテーマにしたことも同様。人間の内側に在る聖と俗、善と悪、誰の中にもある諸相をカラマーゾフ家の人々とその周囲に起こる「殺人事件」を含めた出来事によって著者は我々に問題を提起する。

ここのところ瞑想時にニコラ・ゴンベールのマニフィカト集を極小音量で鳴らす。フランドル楽派のジョスカン・デ・プレの後を継ぎ、通模倣様式に則って書かれた彼の作品は真に美しい。まさに調和の極みといえる音楽であるが、一方で複雑な気分。フランドルというのは、15,6世紀当時のベルギー、オランダ、フランスにまたがる周辺地域を指すのだが、ジョスカンやゴンベールがいわゆる大航海時代の作曲家だと知るにつけ(大英帝国の前の支配国はオランダたったということもあり)、これら聖なる音楽の裏側に潜む人間の邪悪な側面についても自ずと想像させられ、音楽もただ表層的に聴くのでは真髄はつかめないのではなどと考えてしまう。

ところで、先日の八王子の講座ではベートーヴェンを採り上げた。「田園」交響曲を中心テーマに置き、映像を視聴いただいたが、ベートーヴェンの「聖なる」側面にだけ光を当て、「俗なる部分」を時間の関係でお伝えできなかったことが少々心残り。
光があれば翳がある。それは当然のこと。人間は誰しも聖人君子ではない。過去の偉人たちを人はどうしても「光」の面だけ強調したがるが、そんなわけはない。人間の面白さは「俗悪な側面」を一方で持つことにある。そのバランスに芸術の真髄があるのだと僕は思うのだ(ベートーヴェンは芸術家としては神に値するが、一人の人間としては奇行癖あり、突然激昂したり、落ち込んだりと表裏があり相当面倒くさい性質だったようだから、友達にはなれないかも、いや、なりたくないかも・・・笑)。

閑話休題。ニコラ・ゴンベールの件。

ニコラ・ゴンベール:マニフィカト5-8
ピーター・フィリップス指揮タリス・スコラーズ(2002録音)

何という美しく澄んだアカペラ!!
ライナーノーツによると、12節からなる歌詞のうち偶数節のみ作曲し、奇数節はグレゴリオ聖歌のままにする(つまり単旋律)というのが当時の一般的な作曲手法だったらしい。
「第5旋法のマニフィカト」は、第2、第4、第6、第10節が4声、第8節が2声、第12節が5声、「第6旋法のマニフィカト」が、第2、第4、第6、第10節が4声、第8節が3声、第12節が5声、「第7旋法のマニフィカト」が、第2、第4、第8節が4声、第6節が2声、第10節が3声、第12節が5声。さらに「第8旋法のマニフィカト」が、第2、第4、第6節が4声、第8節が3声、第10節が5声、第12節が6声で作られているそうだ。
音の動きが極めて複雑であるのだが、各声部が見事に溶け合い、より多声になったときの響きがサラウンド効果を喚起するようで、その瞬間頭が真っ白になり、魂にまで届くように感じられる。


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