カラヤン指揮フィルハーモニア管の「ばらの騎士」(1956録音)を聴いて思ふ

strauss_rosenkavalier_karajan_1956157リヒャルト・シュトラウスが、マーラーの死の1週間前に書いた手紙には次のようにある。

きみの体調が、まえより良くなって、だらだらした病気を幸いにも克服しつつあるとのこと、それを読んで、ぼくはほんとうに嬉しい。今度の冬、おそらくは12月の初めに、ぼくはベルリンの王立管弦楽団で、きみの「第3シンフォニー」を演奏するよ!このことをきみに、いま知らせるのだが、回復期の陰うつな時期にあるきみは、ひょっとして喜んでくれるかもしれないね。
(1911年5月11日付、シュトラウスのマーラー宛手紙)
ヘルタ・ブラウコップ編著/塚越敏訳「マーラーとシュトラウス―ある世紀末の対話―往復書簡集1888-1911」(音楽之友社)P188

友を想うシュトラウスの気遣いに感動。そして、この1週間後に亡くなったマーラーを悼み、彼は日記に次のようにも残す。

ユダヤ人マーラーは、キリスト教のなかで向上することができた。
英雄リヒャルト・ヴァーグナーは、ショーペンハウァーの影響によって、老年に達したとき、ふたたび身を落して本来の姿に帰ったのだ。
絶対にはっきりしていることは、ドイツ国民はキリスト教からの解放によってのみ新しい活力を得ることができるのだ。・・・私は「アルプス・シンフォニー」をアンチ・キリストと名付けたい。―自分自身の力による道徳的浄化、仕事による解放、永遠に素晴らしい自然の崇拝と名付けたい。
(1911年5月付、リヒャルト・シュトラウスの日記)
~同上書P295

ほとんど無神論者のような勢いだが、おそらく深層はさにあらず。宗教という枠を超えねば真理を獲得できないと、ワーグナー同様シュトラウスもマーラーの死を契機に悟ったのであろう。在るべきは自然であると。なるほど「アルプス交響曲」の崇高さの意義がわかる気がする。

1911年はリヒャルト・シュトラウスにとって極めて重要な年だったのだろうか。この年の1月26日に初演された「ばらの騎士」は空前の大成功を獲得した。全編絢爛豪華浪漫の極みの音楽に溢れるが、やっぱり終幕最後のゾフィー、オクタヴィアン、ファニナル、元帥夫人のアンサンブルからゾフィーとオクタヴィアンの二重唱の譬えようのない美しさに魅了される。

リヒャルト・シュトラウス:楽劇「ばらの騎士」
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ、元帥夫人)
オットー・エーデルマン(オックス男爵、バス)
クリスタ・ルートヴィヒ(オクタヴィアン、メゾソプラノ)
テレサ・シュティヒ=ランダル(ゾフィー、ソプラノ)
エバーハルト・ヴェヒター(ファニナル、バリトン)
リューバ・ウェリッチュ(腰元マリアンネ、ソプラノ)
パウル・クーエン(ヴァルツァッキ、テノール)
ケルスティン・マイヤー(アンニーナ、アルト)、ほか
ラフトン女学校及びバンクロフト高校児童合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団&合唱団(1956.12.10-15, 17-22録音)

オクタヴィアン:
君だけを感じる、君一人だけを感じる、そして僕達が一緒にいることだけを!すべてが夢のように僕の感覚から消えさってしまう。
ゾフィー:
これは夢、本当ではありえないわ、私たち二人が一緒にいるなんて!ずっと、永遠に一緒にいるなんて。
オクタヴィアン:
君一人だけを感じる、君一人だけを。
ゾフィー:
あなた一人だけを感じる。
サイト「オペラ対訳プロジェクト」

愛は神であり、自然でもある。永遠の愛という「神」には宗教を超えた「自然」があるということ。その「永遠」を濃厚で色香豊かな音楽で表現したリヒャルト・シュトラウスの天才。
ちなみに、この録音はつとに元帥夫人演ずるシュヴァルツコップによる名唱と、カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団のあまりの巧さによって、おそらく超えられることのない普遍性を獲得しているのだと思うが、それ以上に素晴らしいのがゾフィーに扮するテレサ・シュティッヒ=ランダルとオクタヴィアンに扮するクリスタ・ルートヴィヒだと僕は思う!!
この部分は何度聴いてもその可憐さに夢うつつ・・・。

 

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1 COMMENT

畑山千恵子

カラヤンには晩年のものもありますが、こちらの方が評価が高いようですね。

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