飯守泰次郎&東京シティ・フィル第268回定期演奏会

「進め!進め!」と進軍喇叭が鳴り渡る。「怯むな!チャレンジせよ!」とどこからともなく怒号が飛び交う。
朝比奈先生が亡くなって以来僕はブルックナーを実演で聴いていない。いや、厳密には御大が亡くなった翌年に大阪フィルの東京定期で若杉弘指揮による第3交響曲を聴いたのが最後だったか。かれこれもう12年ほどになる。あのブルックナーは朝比奈先生の音がした。まるで若杉さんが天国にアプローチして先生から指令を受けて演奏するような特別なものだった。

乾君からお誘いを受け、飯守泰次郎&東京シティ・フィルの定期演奏会に行った。ブルックナーの第5番をメインにしたプログラム。これほどまでに動的なブルックナーは初めて聴いた。何て言葉にして良いものか随分思い悩んだが、一言で表現するとそういうことだ。
第1楽章からあまりに感情的に起伏の激しい音楽が鳴った。テンポの伸縮も甚だしい。果たして僕好みの演奏ではなかったけれど、不思議な説得力があったことも事実。第2楽章はあまりに俗的なブルックナーがそこに在り、のけ反った。敬虔な僧侶であり、オルガニストであるクリスチャンはそこにはいない。この音楽は宗教的祈りに満ちたものであるはずなのにあまりに人間的な音調に満ち充ちる。これでいいのだろうか・・・、そんな思いが過ったが、第3楽章に進み、そういう疑問も吹っ飛んだ。田舎者の野人の踊り狂う様がこれほどまでにリアルに音化された瞬間がこれまであっただろうか。あるいは僕自身経験したことがあっただろうか。白眉はフィナーレ。全体的にオーケストラはとても頑張った。でも、金管は時に辛かった。飯守氏の果敢なチャレンジに徹底的に着いていこうとしたオーケストラの様は見事だった。でも、実際のところほんの少し力量の足りない部分もあった。それは確かに・・・。
終演直後、圧倒的な歓声とスタンディング・オベイションを極めて冷静に第三者的に見ている僕がいた。果たして是か非か・・・。強いて言うならどちらでもなかった。しかしながら、僕のイメージする音楽とは正反対。ブルックナーの第5交響曲はもっと静謐でもっと自然讃歌で、人間が介入する余地のない音楽だと信じているから。

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第268回定期演奏会
2013年4月19日(金)19:00開演
東京オペラシティコンサートホール
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467
アンコール~
・クルターグ:ファルカシュ・フェレンツへのオマージュ
・J.S.バッハ:主よ、人の望みの喜びよ(マイラ・ヘス編曲)
休憩
・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調
菊池洋子(ピアノ)
飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

実に前半のモーツァルトが素晴らしかった。モーツァルトが人生の絶頂期に書いた作品だけあり、安定感のある管弦楽と愉悦に満ちたピアノの響きが圧倒的だった。何よりピアニスト自作のカデンツァの見事なことよ。第1楽章のそれは第40番シンフォニーの主題をモチーフにしたもの。そして第3楽章のそれにはトルコ行進曲が木霊した。さらに、極めつけがアンコール!!ジェルジー・クルターグの遠く彼方から響きわたる「オマージュ」の最後の音が終わるや、「主よ、人の望みの喜びよ」の懐かしくも安心感のある旋律が流れた。この瞬間この女流ピアニストは天才だと感じた。涙がこぼれそうになった。何とセンス抜群の選曲なのだろう・・・。

音楽とは水物だ。十人十色、様々な解釈が存在する。よって今日の飯守氏のブルックナーも悪くなかった。あれはあれで良いのだ。何より聴衆の怒涛の拍手喝采がそのことを証明する。(乾君も絶賛していたし・・・)


3 COMMENTS

ふみ

んー、局所的に見ると文句は多々あって僕も絶賛ではないのですが、全体としては不思議と感銘を受けた演奏でした。
確かにドラマティック性を重視し過ぎて、両端楽章でのアッチェレ多用や二楽章での恣意性や停滞感はブルックナーとしてはNGですが、全体として音の作り方は丁寧で、ブルックナーとして重要な「作品を愛する愚直な姿勢」や「深淵な祈り」を不器用ながらよく表現できていたと思います。ただ、その辺りは音だけではなく演奏者の姿勢をライブで見ないと感じない点だったかも知れませんね。
動的なマーラーとは正反対にいて、ブルックナーは静的観を持っている作曲家、という観点では昨晩の演奏は表現上幾つも逸脱する場面はあったものの、根底には深淵な祈りが存在していた感覚がありました。まぁ、日本人だけであそこまでのブルックナー演奏を与えてくれたことが嬉しかったせいもあるかも知れません。結局日本人って、朝比奈氏が亡くなって以来ブルックナー指揮者を偶像的に創り出していって、ヴァント、ヨッフム、現代ではスクロヴァという流れだと思いますが、現代の日本人でもあれだけ立派なブルックナーができるというのはやはり貴重なことだと思います。どうしても島国で無宗教人種の日本人はブルックナーといえばカトリック、神、教会、等々のヨーロッパ大陸に脈々と流れているアイデンティティーのような媒体を色眼鏡にして評価しようとしますが、僕はそういった点はブルックナーにおいては無意味だと思っていて、あくまで人類の普遍的な「何かを祈る姿勢」が大切だと思うんですよね。日本人ってキリスト教の言う神様ってイメージ出来ない人が多いと思いますが、日常でもなんとなく何かに対して祈ったり、感謝したりする時ってあると思うんですよね。そういった人類が原始時代から根底に持ってる祈りの感覚が音の大きさではなく、音の佇まいや演奏者の姿勢として表現できているかどうかが大切だと思います。そういった意味で昨晩の演奏は評価に値するものだったなぁと。
ちなみに…昨晩の演奏を動的と言うのであればインバルの演奏なんて100倍動的で、響きも下品でしたよ(笑)!

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岡本 浩和

>ふみ君
詳細ご報告ありがとう(笑)。
不思議に感銘を受けたのは多分曲全体が包括的に捉えられていて、統一感があったからだろうね。でも、僕が思うに、5番は音楽として完璧に仕上がっており、指揮者が作り込む余地がやっぱりないのかなと。極論言えば楽譜通りにただ鳴らせば(もちろんセンスはいるけどね)感動的なものはできあがるんじゃないかと。
一方で、6番は言い方が難しいんだけれど5番に比べて「構築力が甘い」というか、再生者が手を施せる余地を作ってしまっているというかね・・・。それは逆に言うと、指揮者が手を加えないと面白い演奏にならない、感動的なものにならないということなんだけどね。
だからいつだったかのインバルの6番に僕が感動したのはそういうわけだからで、もしあのスタイルで5番をやれたら今回のケースと同じように感じたかもしれないし。
ただ、人間は日々感覚は変化しているから、単純にこの2年ほどで僕の中に在る心境変化が何かをもたらして、昨日の演奏に対してそういう風に感じただけかもしれないのでそこはわからないね。

それとヨーロッパ大陸に脈々と流れているアイデンティティ云々の話だけど、西洋古典音楽に底流するものがそもそも「信仰」であるからブルックナーに限らない話だと思います。確かに飯森の指揮には「祈り」の念はあっただろうけど、それにしては少しうるさかったかなぁ。何より聴衆の反応が下品に思えたので・・・(笑)

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