1870年1月21日(金)の「コージマの日記」。
夜分、とても具合が悪かった。自分の死を考え、子供たちのことが心配になる。ルッシュ、ボニー、ロルディ、エーファ、そしてジークフリート、聞いてちょうだい。わたしが死んだあと、あなたがたがばらばらに引き離され、疎遠になったとしても、心のなかの愛の火を消さず、お互いを見捨てることなく、ふたたび相まみえる日が来るように心がけなさい。母を思って、心をひとつにするのです。この絆は、けして断ち切られることはないでしょう。わたしの戒めをどうか忘れないように。
P423-424
一方、「ヒトラーとバイロイト音楽祭―ヴィニフレート・ワーグナーの生涯」をひもとくと・・・。
イゾルデは何年にもわたり必死に母親との話し合いを懇願したが、効果はなかった。ジークフリートが頑強に話し合いを阻止したため、絶望に陥った姉は「訴訟になれば、あなたの立場がどんなに難しいものになるか」―彼女はジークフリートの同性愛嗜好(当時刑罰の対象だった)のことを言っているのだ―と彼に脅しをかけた。・・・(中略)・・・1913年6月、ジークフリートは弁護士を通して姉に、印税が入らなくなったため母コージマが毎年払っていた「法的拘束のない、自由意志による援助」を年間8千マルクに減らすと通達した。
P26-27
「コージマの日記」から40数年後の出来事である。この時、母コージマはもちろん存命だった。かつて自分が日記に書いたことを覚えていたか覚えていなかったか、それは知る術もないが、血縁関係が非常に複雑で、利害関係の絡んだ憎悪が根底にあったものと推測される。
リヒャルト・ワーグナーが唱えた「女性の純愛による救済」とは一体何だったのか?あるいは晩年の「再生論」で至った「共苦」という思想は何を意味したのか?灯台下暗しというのか何なのか、あらためて色々と考えさせられる。
ワーグナー:楽劇「ラインの黄金」
ハンス・ホッター(ヴォータン、バリトン)
ゲオルギーネ・フォン・ミリンコヴィツ(フリッカ、メゾソプラノ)
ルドルフ・ルスティヒ(ローゲ、テノール)
グスタフ・ナイトリンガー(アルベリヒ、バリトン)
パウル・クーエン(ミーメ、テノール)
トニ・ブラッケンハイム(ドンナー、バリトン)
ヨーゼフ・トラクセル(フロー、テノール)
ヘルタ・ヴィルファート(フライア、ソプラノ)
マリア・フォン・イロスヴェイ(エルダ、アルト)
ルートヴィヒ・ウェーバー(ファーゾルト、バス)
ヨーゼフ・グラインドル(ファフナー、バス)
ユッタ・ヴルピウス(ヴォークリンデ、ソプラノ)
エリーザベト・シャーテル(ヴェルグンデ、メゾソプラノ)
マリア・グロース(フロースヒルデ、アルト)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮バイロイト祝祭管弦楽団(1955.7.24Live)
権力欲と金銭欲にまみれた神々の没落を描く序章である。
まるで後のワーグナー家を予測するかのような物語。いや、我欲は人間の根源であり、また原罪でもある。そして未来永劫決して変わり得ないだろう大本であるともいえる。
しかし、最終章でこれら業深き罪の清算をワーグナーは「愛による救済」に託した。しかもこの最後のモチーフは言葉のない音楽のみで表現されているところがミソ。それこそ真理なんだ。
人々が言語を超越し、互いを心底信頼することができ、ひとつになったときに真に平和が訪れる。その意味で、ベートーヴェンの第9交響曲は言葉を介している分弱い。ワーグナーはそのことに気づいていたのかも。
ちなみに、カイルベルトのワーグナーは実に正統だ。
と同時に実に生々しい。当時の屈指のワーグナー歌手たちを集めたバイロイト・ライブはいずれも傾聴に値する。しかし、その舞台裏では様々な人間模様があり、権力闘争があっただろうことを考えると、やっぱり「愛」などというのは空想なのかもと思わずにいられない。権力や金が絡むと、人は誰しも本質を見失う。
猪瀬直樹東京都知事の辞任の背景にも同じような何かがあるのだろうか・・・。
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