聖フローリアンの奇跡(1975年第1回ヨーロッパ公演の朝比奈隆)

asahina_1975.jpg職業柄人前で話すことは決して不得意ではないが、事前にある程度の流れを決められたコンテンツのファシリテートだったり、あるいはそれが自己評価の対称になるものだったりすると途端にしゃべりが上ずってしまうことがある。意識が「自」に向き過ぎて、いわゆる「緊張状態」に陥ってしまうのである。20年近く現場に携わってきても、初めての場では常に緊張するし(もちろん良い意味でだが)、常に初心で取り組もうと心がけているのはいいが、時にそういった状態に直面するのは何とかしなきゃと思う。

事前にあれこれ考えず、どちらかというとアドリブで臨機応変に対応することをモットーとする。というより、目の前のお客様、観客、参加者の様子を見てからでないとどういう話から切り出すかなんて決めようがない。あるいは無反応な相手に対して一方通行的に話をし続けるというのも苦しいものがある。やはり、一定の反応を得、それに対して自分の想いや考えを付け足すように返して、キャッチボールをしながら講義を進めてゆくという形が講師側にとっても受講側にとっても最も有効だと僕は思う。

3年ほど前だったか、「ぶらあぼ」の音楽配信サイト「ブラビッシモ」から朝比奈隆の未発表音源を購入し、CD-Rに焼き付けてそのまま棚の奥にしまってあった音盤のことをふと思い出し、久しぶりに聴いてみた。

ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
(1975.10.20Live、西独ランダウ、スターティシェ・フェストハレ)

かの有名な聖フローリアンの録音から8日を経て、西ドイツにて演奏された大フィルヨーロッパ公演の記録。わずか1週間余りにもかかわらず、そのテンポの違いは意外に大きい(特にアダージョ)。この演奏を聴くと、残響豊かなマルモア・ザールでの演奏がいわゆる演奏の「瑕」まで覆い隠し、それがある意味功を奏してかの永遠の名盤が生まれたのだということがよくわかる。実際、デッドなホールでの当時の大フィルの音は「トチリ」も多く、興醒めになる瞬間も多いが、それでも朝比奈御大のブル7であることには変わりなく、一切の編集のない貴重な録音という意味で大いに価値あると僕は思う。

bruckner_7_asahina_1975_10_12.jpgちなみに、それぞれの楽章のタイミングは次の通り。
聖フローリアン盤    ランダウ盤
第1楽章        22:49              22:11
第2楽章        25:01              23:05
第3楽章        9:34               9:32
第4楽章        14:02              13:27

晩年になるにつれて、朝比奈先生のブルックナー:第7シンフォニーはますますテンポを速めていったが、毎回同じようなプログラムにもかかわらず、あれだけお客さんが入り、しかもチケットの争奪戦が起こるような現象が生じていたのは、やはり、常に「初心の気持ち」で作品に体当たりし、どういう演奏になるのかその日その瞬間までまったく想像がつかなかったところに魅力を感じてなのだろうと思う。それは、もちろんホールやその場に居合わせる観客の空気の差が少なからず影響を与えているのだろう。朝比奈芸術の偉大さはまさにそういうところにある。

両端楽章の30秒~40秒という時間の差も、実際に音を耳にするととても大きいように感じられるのが面白い。いかにブルックナーの聖地での演奏が「祈り」に満ち、まさに朝比奈隆一世一代の大名演奏だったかということがこの2つの演奏を比較してみて一層身に染みる。

3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>(1975.10.20Live、西独ランダウ、スターティシェ・フェストハレ)
これ、未聴なんですよ。とても聴いてみたいです。
大勢の人前で話すとき、マイクがあってもなくても、声の通りのいい会場か否かとか、残響が多いか少ないかとか気になりませんか? 天井が高いか低いかとか・・・、これだけでも乗る、乗らないを左右することがありますよね。
観客や聴衆の大半が10代なのか、20代なのか、同世代なのか、70代なのか、また、多いのが男性なのか女性なのかなどにより、話す表現が異なってくるのも当前ですよね。
関西ではウケる話も、関東や名古屋ではウケないとか、その逆もありますよね。相手が公務員、会社員、学生、あるいは宗教団体・・・、結婚しているか?子供はいるか?覚醒剤の経験はあるか?(おっと失礼、これはお呼びではありませんでしたm(__)m)こうしたことでも話の共感部分が変化しますよね。
講演にせよ、コンサートにせよ、講師や演奏家だけが重要なのではなく、聴衆や環境も、成功させるためには同じくらい重要ですよね。
フルトヴェングラーや朝比奈先生はまさにそうでしたが、優れたクラシックの演奏家は、そうした周囲との阿吽の呼吸を本能的に掴み、的確に演奏に反映させていたのだと思います。優れたジャズ・ミュージシャンと同様に・・・。
いつも思うんですが、芸術とは絶対的存在ではなく、それに共感したり理解したり反発したりする人がいて初めて成り立つ、相対的な存在なのではないでしょうか?
どの座標系も対等の資格をもち、互いに相対的であるというのが「相対性理論」の意味ですよね。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E6%80%A7%E7%90%86%E8%AB%96/
本来はどっちが偉いとかではなく、人間同士なので「互いに相対的」なんです、どんな演奏家も聴衆も・・・。
聴衆・観客がいなくなったら、音楽は滅びます。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
朝比奈先生にせよフルトヴェングラーにせよ、同曲異演が多い音楽家の記録はそれぞれに価値ありますよね。このランダウでのブル7もとても貴重な資料だと思います。
>大勢の人前で話すとき、マイクがあってもなくても、声の通りのいい会場か否かとか、残響が多いか少ないかとか気になりませんか? 天井が高いか低いかとか・・・、これだけでも乗る、乗らないを左右することがありますよね。
まったく同感ですね。
>講演にせよ、コンサートにせよ、講師や演奏家だけが重要なのではなく、聴衆や環境も、成功させるためには同じくらい重要ですよね。
おっしゃるとおりです。
>本来はどっちが偉いとかではなく、人間同士なので「互いに相対的」なんです、どんな演奏家も聴衆も・・・。
聴衆・観客がいなくなったら、音楽は滅びます。
同感です。奇しくも、先日の「クラシック講座(番外編)」でモーツァルトの晩年の話と絡め三大交響曲を抜粋で聴きました。あれだけの名曲でも聴衆から受け容れられなければ、食えないわけでして・・・。ま、真の傑作は時代が進んでしまえば結果的に観客から受け容れられるようになるので、音楽そのものは滅びないですが。
その点、同時代に社会的地位を築き上げたヴェルディなどは社会人としても芸術家としてもバランスの取れた天才だと思います。幼い頃から貧困だったゆえ、もっぱらハングリー精神旺盛だったということですが、聴衆からウケないことにはオペラとしての価値がまったくないという信念のもと芸術創造を間断なくやり続けたわけですから・・・。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む