ロストロの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」

選挙の投票に行った。果たして誰に入れれば良いのか、見当もつかなかった・・・。
ここのところ考える。人間が作ったシステムというのはどんなものでも欠陥がある。利権に絡む人々が利己的に構築したしくみであることが最大の問題なのだけれど、その上に生活する僕たちには基本的に為す術がなく、目に映るすべてが正しいのか間違っているのかもはやわからない。あ、そもそも正否で物事を判断することがおかしいということか・・・。いずれにせよ政治の世界も茶番。冷静になればなるほどすべてが滑稽。

ドミトリー・ショスタコーヴィチの歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」。
「音楽の代わりに荒唐無稽」というプラウダ誌の批判的な見出しについてはここで詳細を述べるまでもないが、この音楽を日がな聴いて思ったこと。すなわち、現代日本の政治の世界についても「政治の代わりに荒唐無稽」・・・。こんなことを書いたら怒られるだろうか・・・(笑)。

若きショスタコーヴィチは恐れというものを知らなかった。何事もチャレンジ。そして、彼のもつ革新性が当時のソビエトの一部の一般大衆の抑圧された心を捉えたのか、初演以降繰り返し上演された。この物語にあるのは、おそらくロシア人の根底に流れる罪意識だ。それは前世紀にドストエフスキーが幾度もチャレンジした人間の黒い部分(エログロ、不安)を炙り出すことで、人間の孤独や不信とともにその裏返しの「愛」や「純粋無垢」というものに一層の焦点を当てるという試みでなかったか。そして、その物語にショスタコーヴィチの音楽が見事に応え、はまりにはまる。どの瞬間も生々しく、色気も欲も、あるいは悲哀も歓喜も・・・、すべてが完璧な創造物となって僕たちの前に現れる。

確かにこれではスターリンの怒りを買うのも無理はない。1936年1月26日のスターリンの観劇により周囲は賞賛を期待したがさにあらず。第3幕の途中で、・・・特にこの幕はいわゆるスケルツォ楽章に相当するところだから、音楽もいかにもショスタコーヴィチ風のシニカルで諧謔的な響きを持つが・・・、スターリンは席を立ちボリショイ劇場を後にした(もっともスターリンの逆鱗に触れたのは第1幕後半のセルゲイによるカテリーナのレイプ・シーンらしいが)。その翌々日のプラウダ誌に掲載されたのが先の言葉である。結果、暗黙の了解による上演禁止。しかも作曲者は死の恐怖にさえ怯えざるを得ない状況にも追い込まれる・・・。

人間の深層に斬り込み、確かに表立っては荒唐無稽なストーリーであったかもしれないが、その裏にある「人間愛」をスターリンは感じることができなかったのか?なるほどそれは無理というものか、もしもそれを感じとることができる人だったなら粛清を含む恐怖政治などなかっただろうし・・・。

ショスタコーヴィチ:歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」
ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(カテリーナ・イズマイロヴァ)
ニコライ・ゲッダ(セルゲイ)
デミテール・ペトコフ(ボリス・イズマイロフ)
ヴェルナー・クレン(ジノヴィ・イズマイロフ)
ロバート・ティアー(シャビー)
タル・ヴァルヤッカ(アクシーニャ)
ビルギット・フィンニレ(ソニェートカ)ほか
アンブロジアン・オペラ・シンガーズ
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1978.4録音)

後にショスタコーヴィチはこのオペラに改訂を施し、「カテリーナ・イズマイロヴァ」として復活させるが、いわゆる原典の「マクベス夫人」は長い間忘れ去られていたらしい。初版のスコアを手に入れたロストロポーヴィチが世界で初めてレコーディング、それがこの音盤である。
さすがにロストロポーヴィチはショスタコーヴィチの語法に通じているようで、全編にわたり血が通い、しかも肉感的な音で、ショスタコーヴィチのこの傑作を映像なしでまったく飽きさせずに聴かせてくれる。確かにこれはロストロの個人的趣味、すなわち色恋沙汰が豊富で、女性には目がなかった性質(笑)と見事にマッチした点が強みだろう。彼にはこの物語の内容が身に染みて理解できたのかも。まぁ、しかしこの作品の視点はあくまで男性側からのものだ。女性は多分気分悪いだろうに。にもかかわらず、主役を歌ったヴィシネフスカヤの歌唱表現の巧さが際立つ。このあたりさすがロストロポーヴィチの妻だけある、百戦錬磨か・・・(笑)。

選挙の投票率は3割ほどだと。ひどいものだ。

 


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1 COMMENT

アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » ショスタコーヴィチの「カテリーナ・イズマイロヴァ」を聴いて思ふ

[…] 道すがら「カテリーナ・イズマイロヴァ」を聴く。旧「ムツェンスク郡のマクベス夫人」というこの問題作は、音楽だけを享受しても真に刺激的だ。そもそも性欲や不倫や、挙句の果ての殺人や自殺や、そういう人間世界の「負なるもの」が物語のうちに充溢する作品などそう多くあるものではない。しかし、「負」とはいえ、どの人間の深層にもそういう本能、あるいは欲望が渦巻くであろうことは否めない。これこそ神が人類に与えた原罪のひとつ。ところが、こういうものを隠そうとすればするほど逆に様々なトラブルが生じるのだ。腹の探り合い、駆け引き、すべては人間世界のエゴから端を発するもの。 ショスタコーヴィチはそこに直接的に問題を提起する。ひょっとすると、彼の深層には台頭しゆくスターリニズムへの恐怖と抵抗が厳然と存在し、宗教や信仰を否定する体制に対して絶対的な服従を拒否し、そういう心を取り戻そうと躍起になった表れとしてこういう過激な作品が生まれたのではないのか。聖と俗とは表裏一体。いわば神聖なる信仰心とポルノは表裏の関係で、この際ある種同義であると僕などは考えるのだが、いかがなものだろう。 […]

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