フルトヴェングラーの「フィデリオ」(1953年盤)を聴きながら・・・

ここのところしばしばベートーヴェンの「こと」を考える。
やっぱり西洋クラシック音楽の中心、というかポイントはこの人にあるように思うから。
それこそ自然を想い、地球を想い、人類がひとつになることを夢見ていた、いや予感していた稀有なる存在、もしや彼は宇宙人かと思わせるほどの存在。そして現代において救世主になり得る存在・・・。
先日、クリスティアン・ティーレマンの第9交響曲を観ていて閃いたこと、すなわちシラーが本来”Freiheit”としたかった歌詞を当時の状況が許さず”Freude”に変更したこと、しかもその頌詩に23歳の頃から音楽を付けようと企んでいたという類稀な先見こそがベートーヴェンをして僕に唯一無二の存在だと思わせる。

第9交響曲は実際に完成をみるまでに30年近い期間を要したということが大いなる着眼点。そして、例の「歓喜の歌」の元となったであろう旋律が既に1795年に書かれた歌曲にあること、さらに1808年に「合唱幻想曲」の主題に転用されていること、しつこいけれど、大変な試行錯誤と推敲、努力によってようやく1824年に陽の目を見たあの音楽。後世にはワーグナーがこの音楽の影響を受け、一連の楽劇を生み出すその礎石となった傑作。

「第9」が少なくとも思想的に、あるいは音楽的にもベートーヴェンの最高傑作の一角を担う作品であることは間違いないが、もうひとつこの作品と同レベルで大事な作品を誰もが忘れがち。それは同じように何年もの歳月をかけて推敲を重ね、諸々の事情により何度も改訂の憂き目にあう作品だが、それゆえにこそ彼にとって決して手放すことができなかった作品といっても良い(このレベルで時間を費やした作品はこれらの他にないのでは?)。

行く末「フィデリオ」、もともとは、いやベートーヴェンの意志の中ではおそらく最後まで「レオノーレ」であったろう歌劇。ある人は駄作扱いするあのオペラを(そういう僕も本当に長い間この作品の真価がわからなかった。ここ1年ほどでようやく開眼したと言っても過言でない)、ベートーヴェンが産みの苦しみというものを味わいながら世に送り出したことにそもそも意味があるのだと初稿やら1806年版やら交え、数ヶ月かけて少しずつ(深く)僕は聴いてきた。この音楽は決して凡作などではない。聴けば聴くほど味の出る、というかあまりに深い思想が練り込まれた最高傑作(のひとつ)だと断言できる。

ただし、残念ながらそう断言する根拠を詳細に論じる力量が今の僕にない。わかりやすく言うならテクストの読み込み、特に「レオノーレ」のものが聴き込みとあわせてまだまだ至らない(さて、いつになったらこの問題について細かく書けるのだろう?)。そんな中、一つ言えるのはこの歌劇がやはり「人類救済」をモチーフにしたドラマであり、現代においてこそもっともっと聴かれるべき音楽だということ。

フルトヴェングラーのスタジオ録音盤を聴きながら・・・。

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」作品72
マルタ・メードル(レオノーレ、ソプラノ)
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(フロレスタン、テノール)
ゴットロープ・フリック(ロッコ、バス)
オットー・エーデルマン(ドン・ピツァロ、バリトン)
アルフレート・ポエル(ドン・フェルナンド、バリトン)
セナ・ユリナッチ(マルツェリーネ、ソプラノ)
ルドルフ・ショック(ヤキーノ、テノール)ほか
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1953.10.13-17録音)

台詞なしの音楽のみによる全曲盤。僕の嗜好では、どちらかというと台詞付の完全版を所望するが、煩わしさがない分聴きやすいことは確か。そのお蔭かどうかベートーヴェンの書いた音楽の素晴らしさが手に取るようにわかる。僕の感性ではモーツァルトの「魔笛」に引けをとらない崇高さと意味深さを見る。すなわち(西洋的)二元論的価値観を「一」に集約せよ、包み込めという思想が読み取れるということ。そして、そもそもベートーヴェンが歌劇タイトルを「レオノーレ」という主役の本名に拘ったことこそが、この作品が一世一代のものであることを物語ることも見逃せない。この女性は「フィデリオ」ではない、「レオノーレ」なんだ!と(名が体を表すならばこの点は極めて重要だ。僕の中でもこの作品は「レオノーレ」だという認識)。
後にワーグナーは「女性の愛による救済」を彼の思想(芸術)の根幹に置いた。今も「女性が世界を救うだろう」、そんな時代だ。つまり、ベートーヴェンの先見はここにもある。あくまで主役は女性でなければならなかったということだ。

ところで、フルトヴェングラーの音楽は相変わらず熱い(内容的には1950年のザルツブルク・ライブの方が間違いなく上だけれど)。さて、もうしばらくじっくり時間をかけて「レオノーレ」について考えることにする・・・。

 


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2 COMMENTS

Judy

「女性が世界を救うだろう」、そんな時代だ。

BeethovenのFidelioを聴いてこれだけのことを掴みとってくれるコンブリオさんはやはり凄いです。今やご存知の方も多いと思いますが現代屈指ののSpiritual LeaderとされるEckhart Tolleがまったく同じことを言っていますね。「New Earthは女性が救済することになるでしょう。」って。これって女が優っている意味ではなくて男女を問わずそこに内在する「女性性」がいよいよ真価を発揮するでしょうということだと思います。男性の中にも例えば育児の本能は父親から遺伝するように女性性が大いに存在しているということですね。そしてBeethovenを始め多くの優れた芸術家はこのことに早くから気づいてその作品に反映させていたんですね。またまた音楽のありがたさが身にしみる今日このごろです。あ、ちなみに「今日このごろ」という表現を使いたがるのは断然女性に多いと気づいた人は向田邦子さんです。

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岡本 浩和

>Judy様

>女が優っている意味ではなくて男女を問わずそこに内在する「女性性」がいよいよ真価を発揮するでしょうということ

同感です。とはいえ、いろんな意味で男より女の方が優っているとも思いますが・・・(笑)

>音楽のありがたさが身にしみる今日このごろ

ほんとですね。少なくとも現代にまでその作品が残っている作曲家は現代社会の問題を解決に導くヒントを持っているように思います。音楽を通して人類がひとつになるって素晴らしいことだと思うのです。

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