初秋の朝のアントン・ヴェーベルンの神秘。
音楽の言葉にならない浮遊感。宇宙が進歩、発展、向上するように、小宇宙たる彼の音楽も大いなる変化の中で聴衆の耳を刺激する。最小限の音だけをいわば明滅させる変奏曲の極意。そのときリヒテルは何を思うのか?
ただひたすら創造行為に陶酔するのみ。終演後の聴衆の熱のこもった静かな拍手が美しい。
秋の昼のベラ・バルトークの道化。
3つのブルレスケから第1曲プレストは、まるでショパンの「葬送」ソナタ終楽章の一陣の疾風の模倣のようで、リヒテルはテクニカルに、そして時に茶化すような仕草をみせながら、あくまで真摯に音楽に向き合う。続く第2曲アレグレットは跳ねる。ただし、リヒテルの思念は沈潜していく様子を想像させる。そう、考え込むリヒテルの姿が知的で愛らしい。そして、第3曲モルト・ヴィーヴォ,カプリチオーソにもリヒテルらしい茶化しが垣間見られる。バルトークの生み出す調和はどこまでも頭脳的だが、それにも増してリヒテルの冷たい知能が刷り込まれた演奏の何という素晴らしさか。
晩秋の夜のカロル・シマノフスキの憂愁。
「メトープ」第1曲「セイレーンの島」は、複雑怪奇。また、第2曲「カリュプソー」は、何と暗く、しかし甘美で官能的なのだろう。
ウィーンはヤマハ・センターでのリサイタルの記録。
聖事と凡事。僕にとって音楽を聴く行為は、もはや聖事の一つである。日常の喧騒やルーティンを逃れる、たった独りになれる時間がそこにはある。
真夜中のパウル・ヒンデミットの不安定な情緒。
第3曲「夜曲」の夢心地から第4曲「ボストン」への目覚め、そして、終曲「ラグタイム」への発熱がなんと画期的で、また聴く者にゆらぎをもたらすのだろう。終演後、決して多くはないだろう、コアな聴衆の小さな「ブラヴォー」という声に、何だか僕はとても痺れる。
リヒテルの弾く20世紀の音楽から僕は、現代音楽とジャンル分けされ、一般的には避けられる音楽のいわゆる難解な厳格さの他に、それを隅から隅まで味わう楽しさを教えてもらった。そこには大いなるゆらぎがある。人の(後天的)知性にまみれた思念と同期する(先天的)愛があるのだ。