アマデウス四重奏団のブリテンとシューベルトを聴いて思ふ

シューベルトの後期の作品はいずれも死の暗い影に蔽われるが、一方でそれは崇高で透明な再生の色調をも表す。冒頭の強烈な主題(特に2度目に現れる激しい主題提示の後の上擦った旋律!)が何とも耳について離れない。「死と乙女」四重奏曲を聴きながらふと思った。

ワーグナーは「ジークフリート」におけるブリュンヒルデの目覚めのシーンと「神々の黄昏」におけるジークフリートの死のシーンで同じ音楽を使った。覚醒と死とは同一現象であることを示唆するものだが、シューベルトが曲を付したマティアス・クラウディウスの詩「死と乙女」も死を永遠の安寧であると捉えるようだ。

(少女)
向うへ、ああ、向うへ!
行って、乱暴な骸骨!
私はまだ若いのよ、行って、おねがい!
私の身体に触らないで。
(死)
手を出しなさい、美しいか弱い子よ!
私は味方だ、罰を与えに来たのではない。
おとなしくして!私は乱暴はしないよ、
腕に抱いてすやすやと眠らせてあげよう!
(石井不二雄訳)

これまたアミの言葉と被る。死とは決して恐怖ではなく、ワーグナーも「音」で示したように「覚醒」なのである。歌曲「死と乙女」の旋律が第2楽章変奏曲の主題として流用される第14番の四重奏曲。ここには「死」が投影され、同時に「覚醒」が表現される。第1楽章が現世的な死との闘争であると解釈するなら、第2楽章はもはやすべてを受け入れた静謐な「空(くう)」だ。これこそ調和、そしてZEROの世界!!アマデウス四重奏団の音楽は永遠なり。

シュヴェツィンゲン音楽祭1977
・ブリテン:弦楽四重奏曲第3番作品94
・シューベルト:弦楽四重奏曲第14番ニ短調D810「死と乙女」
アマデウス四重奏団(1977.5.21Live)

ところで、今年生誕100年を迎えるベンジャミン・ブリテンの四重奏曲。死の直前に書き上げられたこの音楽も前衛的な側面を見せるもののショスタコーヴィチの同ジャンルの作品同様耳に馴染みやすい。暗い、いかにも「死」に直結するかのような雰囲気を漂わせる。緩―急―緩―急―緩という独特の楽章構成がさらにその様相を際立たせるが、ここでの作曲家は当然「死」は意識していないだろう。

結果として「遺作」となったこの作品はブリテンの遺言であると同時に希望の光だ。
それは死が再生と同義であるかのように、表面上の響きと内側に秘めた楽音を同化させ、聴く者に「喜び」を与える。特に、第3楽章ソロのヴァイオリンによる静かな高音の旋律は実にそのことを如実に示すようだ。
ちなみに、ブリテン自身は両性具有を地でいった人だと思うが、その意味で覚醒と死の両方を同義で認識できたのかも。ということは、死の直前のこの音楽には偶然ながら覚醒の要素が自ずと取り込まれていそうだ。これも僕の勝手な妄想だけれど・・・。

そう、終楽章のレチタティーヴォとパッサカリアの深刻さがこれまた堪らない・・・。

 


人気ブログランキングに参加しています。クリックのご協力よろしくお願いします。
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む