「エフゲニー・ムラヴィンスキーⅡ」を観て思ふ

tchaikovsky_shostakovich_salmanov熱気と感動に溢れる拍手の中、幾度もステージに呼び戻され、最後は見慣れない笑みすらこぼす光景が。指揮中の厳しく険しい顔が期せずしてほころぶ姿は初めて見たかも。それほどに素晴らしい演奏が繰り広げられたのだ。

エフゲニー・ムラヴィンスキー晩年の映像はどれも神々しい。指揮棒をもたず、高椅子に腰を掛け、鋭い眼光によってオーケストラを統率する姿はそれだけで絶対音楽。チャイコフスキー晩年の傑作「くるみ割り人形」がムラヴィンスキーの解釈を得て、新たに生まれ変わる。ここで演奏されるのは一般的な組曲ではない。ムラヴィンスキー自身が選んだ抜粋版。第1幕の後半と第3幕の終盤を取り出し、あくまで純粋器楽曲として表現されるこの「くるみ割り」のあまりに即物的な解釈に翻弄されながら、内側に感じられる「熱さ」と外面の鋼のような鋭さに思わず鼻血が出るほど。

何という愛情。モスクワの聴衆はもはや終わりのない拍手を送る以外術がなかったのだろう。バレエのないバレエ音楽が人々を天国に導くのである。

お客が退場し、魔法がはじまるシーンから「雪片のワルツ」までは夢を見るような恍惚の時間のはずだが、そんなシーンはお構いなしにムラヴィンスキーはひたすら音楽をする。次の「フランチェスカ・ダ・リミニ」同様、標題音楽の態を示しながらそこにあるのはただ切れば血が出るような音楽のみ。相変わらずの金管の超絶的音圧が聴衆を串刺しにする。
さすがに終幕の「パ・ド・ドゥ」は幾分メルヘンチックだ。何という優しさ、何という美しさ。

・チャイコフスキー:バレエ音楽「くるみ割り人形」作品71抜粋(1982.11.24Live)
・チャイコフスキー:幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」作品32(1983.3.19Live)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第12番ニ短調作品112「1917年」(1984.4.28Live)
・サルマーノフ:交響曲第2番ト長調(1984.4.4Live)
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

聴衆は圧倒的に女性が多い。縦横に映し出される観客席の人々の得も言われぬ恍惚と感動が伝わる。

ダンテの「神曲」にインスパイアされた「フランチェスカ・ダ・リミニ」もムラヴィンスキーの手にかかればその標題性が確実に吹っ飛ばされる。「あらゆる音楽は標題的である」というチャイコフスキーの意図を知らぬが如くにここでもただひたすら「音楽」が絶対的に奏でられるのだ。何という凄まじさ。ムラヴィンスキーを終始正面から追うカメラワークのせいもあり、指揮中の彼の表情と相まって音楽の厳しさが強調される。

さらに、ショスタコーヴィチに卒倒。第12番交響曲は当時それ前の作品ほどの賞賛を受けなかったにもかかわらず、中でムラヴィンスキーはただひとり擁護したそうだ。

これほど壮絶で人間的な音楽があろうか・・・。いつものように咆える金管群と波打つ弦楽器群と、そして何より終楽章コーダで打ち鳴らされる打楽器群の有機的な響きに心奪われるのだ。30年前のソビエト連邦の映像はいかにも古めかしいが、そんな悪条件を軽く超える音楽と演奏に無条件に感謝したくなる。

本質的に、これはこの作曲家が、この様式にある「古典的な」符合を遵守する伝統的なソナタ・アレグロを、初めて満足いくように実現したものである。頂点が非常に正確に作られ、それと対照を満たすように、この部分が何と素晴らしく聴衆の良心の中で前面に出され、何と巧みに与えられ、主題材料が展開することか!ここに様式の演出が見事な職人芸で達成されている。
グレゴリー・タシー著・天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」P243

チャイコフスキー2曲、そしてショスタコーヴィチがあまりにすご過ぎて、お腹いっぱい。サルマーノフはもはや上の空。近々またあらためてじっくり鑑賞することにしよう・・・。

 


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