パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団第1879回定期演奏会

巨大なホールはほぼ満員。
時代の変遷とともに音楽は自然と熟成されるのか?終演後の、聴衆の驚くべき割れんばかりの拍手喝采にあらためて僕は驚いた。マーラーの、おそらく最も晦渋な交響曲が、あれほどの熱狂と歓声で迎えられるのだからやっぱり時代は確実に変わったということだろう。

正味72分ほど。相応なテンポと、うるさくなり過ぎない音響は、心地良い洪水のようで、とても癒された。例えば、第4楽章のギターとマンドリンの音が、埋もれるどころか何と明晰に聞こえることか。マーラーは客観的かつ冷静に聴くと、発見が多い。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団の演奏を聴いて、「影のように」と指定される第3楽章と、アンバランスなまでの熱を持つ終楽章こそが、実は対なのではないかと僕は思った。遠慮がちで密やかな第3楽章は鏡の役割を果たすのだが、あの虚ろな響きがより強調された今日の演奏は、ある意味あそこで頂点を形成していた。終楽章の途轍もない巨大さが一層強調されたのは、第4楽章からアタッカで奏されたゆえだろう。それならば、第4楽章「夜の音楽」はあくまで前奏であるということだ。そういう視点で音楽を考えたとき、ならば第2楽章「夜の歌」は、同じく巨大な第1楽章の後奏ということになろうか。
まるで僕は夢の中にいるようだった。

NHK交響楽団第1879回定期演奏会
2018年2月11日(日)15時開演
NHKホール
パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団
・マーラー:交響曲第7番ホ短調

安定の金管群。弦のたおやかな響き。
複雑怪奇な音楽が、一切の弛緩なく、また一糸乱れず生み出される様に感動した。
スケルツォとはいえまったく舞踊には向かない第3楽章は、音を抑制した中での現世肯定。そして、第4楽章「夜の音楽」の静けさに涙がこぼれる。

ところで、マーラーが能楽を知っていたのかどうかは僕は知らない(知るはずないか?)。しかし、第2楽章と第4楽章を作曲した後、しばらくスランプに陥ったマーラーが、突然第1楽章の最初の楽想が降りるや一気に作品を書き上げた背景には、東洋的な思考の到来と、同時に霊的なインスピレーションが間違いなくあったのではないか。

白洲正子「鵺(ぬゑ)」の一節。

「そこにいるのは何者か。里人に聞いたとおり舟の形ははっきり見えるのに、乗っているものは青白く光って浮いているだけで、気味がわるい。いったいおまえは人間なのか、化けものか」
「そうおっしゃるあなたは、どういう方なのです。ごらんのとおりわたしは、埋木のような身で、闇の中にひっそりとかくれていますのに、気味がわるいなどといわないでください」
白洲正子「能の物語」(講談社文芸文庫)P25

闇の中に秘かに隠れる何者かを呼び覚ます声。それこそマーラーの音楽。

語り終えて、恥じ入っているあわれな亡霊に、僧は慰めるようにいった。
「ほんとうに過去の苦しみから救われたいのなら、悪心を転じて善心となすことです。世にかくれもない鵺の執念を、そのまま仏道に転換して、成仏の機縁となさるがいい」
「自力で成仏する力もないわたしですが、罪にしずむことは、浮かぶことのきっかけとなるかもしれませぬ」
「縁あればこそ、われわれもこうして会えたのではありませんか。力を落とさずに、仏さまを信じなさい」
とさとす言葉に、亡霊は少し心が安まったのか、ふたたびうつぼ舟(木をくりぬいた舟)に棹さして、浮きつしずみつ、しだいに姿をかくして行く。あとにはすさまじい鵺の啼き声が、夜の闇をつんざいていつまでも聞こえているのであった。
~同上書P28

何だか、まさしく「鵺」こそがマーラーの交響曲第7番の触発元ではないのかと思えるほど。あくまで妄想だけれど。

 

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