ラフマニノフの「楽興の時」を聴いて思ふ

rachmaninov_transcriptions_ossipovaあくまで僕の勝手な見解だけれど、ピアノを弾く人たちというのは良い意味でも悪い意味でも「自分をもっている」人が多い。ピアノという楽器が音楽をする上で万能だという自負があるからなのかどうかわからないけれど、いわゆるコンポーザー・ピアニストでヴィルトゥオーソとして鳴らしたリストもラフマニノフも、実にエゴイスティックな人だったのだろうと想像する(もちろん良い意味でも悪い意味でも)。
人間であるから「エゴ」は誰にでもあり、それを否定することはできない。エゴイスティックであることがいかにも悪いように言われるけれど、決して悪いことではないと僕は思う。エゴイスティックだって良いではないか!ただし、どの瞬間においても自分の状態が「エゴイスティックであったかそうでなかったか」が自覚できているかどうか、それが大事。

ところで、様々な問題は人間の発する「エゴ」から生まれる場合が多い。個人のトラブルという視点からみても、「エゴ」が内に向けば鬱病などの精神疾患を誘発するし、外に向けば爆発し、人を傷つけたり殺めたりという問題が起こる。自他のバランスをとる、中庸に保つというのはなかなか難しいことだ。

リストのものもラフマニノフのものも、特にトランスクリプションものに僕は「エゴ」を感じる(これも勝手な独断)。いかにも大仰なアレンジと、それでいて原曲に比して表層的な音楽にならざるを得ない矛盾と。

ラフマニノフは第1交響曲の失敗で精神を病んだ。この初演の失敗を自らの汚点としてずっと許せなかったことが彼の弱さでもある。大傑作なのに。

私にはぞっとする作品が3つあります。第1協奏曲、(ジプシーの主題による)奇想曲、第1交響曲です。私はこれらをすべて書き直したいと思っています。
(1908年4月12日、モロゾフ宛手紙)

(第1交響曲には)いくらかの良い音楽もありますが、子供じみて、不自然で、大言壮語的なところも多くあります。・・・(中略)・・・誰にも見せないし、遺言でも閲覧を禁じるつもりです。
(1917年4月13日、音楽学者アサフィエフ宛手紙)

聴衆に、あるいは批評家に受け容れられないからと言って自らの創造物をこのように否定してしまうのは残念だ。ひょっとするとリストにも同じような側面があったのかも(いくつもの作品に様々な稿が存在することから。晩年に相当な酒量を誇り、ほとんどアルコール中毒状態だったことも精神的脆弱さを露呈する)。

一方、ラフマニノフの自作曲は当時認められようが認められまいが、一聴に値する作品が並ぶ(トランスクリプションは作品の一般認知に多大な役目を果たしたろうからそれはそれで良い)。「6つの楽興の時」など何て素晴らしい音楽なのだろうとため息が出るほど。

ラフマニノフ:ピアノ独奏のためのトランスクリプション全集
・J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータホ長調~前奏曲、ガヴォット、ジーグ
・シューベルト:美しい水車屋の娘~第2曲「どこへ」
・メンデルスゾーン:真夏の世の夢~スケルツォ
・ビゼー:組曲「アルルの女」~メヌエット
・クライスラー:愛の悲しみ、愛の喜び
・ムソルグスキー:歌劇「ソロチンスクの定期市」~陽気な若者たちのゴパーク
・チャイコフスキー:子守歌
・リムスキー=コルサコフ:歌劇「皇帝サルタンの物語」~熊蜂の飛行
・ラフマニノフ:リラの花作品21-5&デイジー作品38-3
・ラフマニノフ:6つの楽興の時作品16
イリーナ・オシポワ(ピアノ)

オシポワのピアノは極めて正統的。ロシアン・ロマンスを相応に湛え、ラフマニノフの哀感を決して忘れない。もう少しねっとりとした質感が欲しいと思うのだけれど、こういう直截な演奏も時に良し。
決してラフマニノフの音楽を否定しているわけではない。むしろ僕は大好き。
それより僕は彼の真骨頂は管弦楽曲に(もっと言うならピアノ作品以外に)あると思う。ヴィルトゥオーソ・ピアニストが想像力逞しく創造した交響音楽たちにこそ「天才」を垣間見る。

 


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