クレンペラーのブルックナー第8交響曲(1957Live)を聴いて思ふ

bruckner_8_klemperer_koln_1957妄想というのも見方を変えれば芸術なんだ。
精神が高揚する時、得てして人は突飛な行動をする。度が過ぎると奇人変人扱いされるが、それでも偉大な芸術家の場合は許される。それにしても、現実生活を送る上で、彼らの親族含め身近な人々はさぞかし大変なことだっただろう。

オットー・クレンペラーのエキセントリックな一連の言動は、やっぱり精神不安定由来だろうか。それでもずば抜けた音楽的才能があったがゆえ、どんなに風変わりな行動をとっても、他人は大目に見た。

ブルックナーの大幅カットの問題も、おそらく本人はまったく正常ではなく、躁鬱病だったと言われる彼の躁状態の時にもたらされた仕事なのじゃないのか。僕は勝手に空想する(何より演奏会のプログラムに付けた理由書きの不自然さがそのことを物語る)。この第8交響曲についても別の実況録音盤を聴いてみると、いたって普通の解釈で、いや、どちらかというと快速テンポの極めて前進的で躍動感に満ちた解釈で、実に小気味良い。もちろん楽譜の改竄など行っていない。こういう音楽ができるのに、どうにも変わった(理解に苦しむ)理由をくっつけて勝手放題をするのは、やっぱり正常じゃないことの証。芸術が負の美学だとするなら、それすらも受け容れる余地があるということなんだが、どんなことでも「過ぎたるは・・・」。

とはいえ、僕も随分器が大きくなった(笑)。頭では反発を覚えても、「なるほど、これもありか」と思ってしまう節もあるのだから、そこはクレンペラーの人格というか人徳というか・・・。音楽再現芸術というのは真に奥深く、それにゆえに飽きないし、面白い。

ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(1889/90年ノヴァーク版)
オットー・クレンペラー指揮ケルン放送交響楽団(1957.6.7Live)

ひとまず悪名高い1970年のスタジオ録音盤とタイミングを比較してみる。その上で、シューリヒトのスタジオ盤との比較も。

*******    1970年        1957年        シューリヒト盤
第1楽章    17分50秒    14分19秒    15分31秒
第2楽章    19分50秒    14分28秒    13分58秒
第3楽章    26分57秒    22分37秒    21分42秒
第4楽章    19分22秒    19分42秒    19分42秒

終楽章は、例の大幅なカットを施した演奏と改変しない通常のノヴァーク版での演奏とほぼ同じ時間なのだから、いかに最晩年のもののテンポが遅いかがわかる(シューリヒト盤とまったく同じというのも不思議な一致)。まったく尋常ではない変わりよう。アダージョ楽章のコーダのテンポ感は颯爽として素晴らしい。続いて現れるフィナーレ冒頭の雄渾な進軍ラッパの響きも捨て難い。

しかしながら、ここで自分の内側で興味深い出来事が起こっていることに僕は気づく。
どういうわけか、スタジオ録音の方により一層のシンパシーを覚えるのである。ライブの方も名演奏であることは間違いないが、何かが足りない。あまりに普通過ぎるゆえの物足りなさなのか、それともあくまで実況放送のテープを基にした音質の劣るところから来る物足りなさなのか、そのあたりは判断できかねるが、今の僕は1970年のクレンペラー芸術に軍配をあげる。

精神の安定と芸術という仕事の質は、必ずしも比例しないということなのか・・・。ということは、モーツァルト最晩年の至高の傑作群も経済的困窮から生じたであろう精神的苦悩から生れ得たものだと言って良いということか。興味は尽きない。

 


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