一流の音楽家というのは大概独善的だ。決して悪い意味ではない。自身のアイデンティティを貫き通す姿勢というのはなくてはならぬもの。要は、聴衆を感動させることができるなら何でもあり。
それにしてもオットー・クレンペラーの傍若無人、自己中心ぶりは相当なものだ(笑)。有名なところは、例のブルックナーの第8交響曲フィナーレの大幅カット。あまりに音楽の流れを無視した横暴だと僕も思うが、他楽章の類稀な名演奏ぶりを聴くにつけ、この録音がきちんと楽譜の通りにやられていたらどれほど感動的だったか、真に残念でならない。
作曲者は音楽的な工夫をしすぎてまとまりがなさすぎるように私には思える。ブルックナー愛好家はきっとこれに異議を唱えるだろう。しかも、私はこれを他の指揮者の規範として行ったものでもない。私自身の解釈については、私だけに責任がある。
何とも腹の座った言。ここまで言い切り、しっかり責任をとるというのだから自信家、いや、かなりの変人だ。
ところで、クレンペラーはメンデルスゾーンの「スコットランド交響曲」にも独自の改変を加えている。終楽章コーダを、作品中の楽想を使いながらクレンペラー自身が作曲したものにまるまる差し替えているのである。これについても彼は語る。
「メンデルスゾーンは、エンディングの男声合唱的な色彩が、非常に気がかりだったので、フェルディナント・ダヴィット(当時のオーケストラのコンサート・マスター)に、ティンパニを必ず入れ、ホルンを増やして、ヴァイオリンを大幅に減らしてくれないかと頼んだ」と、いうのです。
つまり、言葉を変えていえば、メンデルスゾーンはこの交響曲のコーダに、全然満足していなかったのでしょう。このコーダは確かに変わっています。・・・(中略)・・・そんなわけで、私には、コーダをすっかり書き換える権利があると思います。・・・(中略)・・・書き換えについて、ずいぶん批判されるだろうと承知していますが、それでも正しいことをしたと信じています。
いやはや何とも・・・。いかにも都合の良い論理の飛躍のように思えなくもないが、とはいえ、音楽の挑戦と考えればこれはこれであり。その代り、「精神の解放」からは程遠くなり、どちらかというと「精神の同質化」によってカタルシスを生む方法と化す。
・メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」(1969.5.23Live)
・シューベルト:交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」(1966.4.1Live)
オットー・クレンペラー指揮バイエルン放送交響楽団
クレンペラーというのはライブの人だ。明らかにスタジオ録音とテンションが違う。第1楽章冒頭から呼吸が活き活きとし(とても晩年のものとは思えない)、例えば打楽器の響きは有機的で、聴く者を一気にメンデルスゾーンの世界に引きずり込む。
ちなみに、シューベルトの方。クレンペラーは「未完成」交響曲も得意とした。
コンサート後日、本人が楽団のマネージャーに宛てて書いた手紙。
あのコンサートには、大変うれしい記憶があります。特に「未完成」はあれ以上の演奏は考えられないほどです。
一世一代の記録たち。
※過去記事/2009年2月20日:「いざ福岡へ」
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