
実に立体感のある、すごい音楽だと思う。
音符の一つ一つにメッセージが込められる。もはや「二枚舌」とは言わせない気迫と覚悟が感じられる。エフゲニー・ムラヴィンスキーは初演の指揮を断わった。代わりに、キリル・コンドラシンが棒を振った。
亀山郁夫さんの指摘がまた的を射ていて興味深い。
こうして全5楽章からなる交響曲第13番が閉じられることになるが、注意しておきたいのは、第1楽章「バービーヤール」の歌詞をめぐって生じた一連の騒ぎが、この曲全体の本質を見失わせている可能性があるということである。残りの4楽章は、第1楽章とはまったく別質の激烈な体制批判を含んでいるという意味において、むしろそちらこそ問題視されるべきではなかったろうか。ところが、検閲当局がこだわったのは、どこまでも第1楽章だった。なぜなら、この第1楽章は、ソヴィエト連邦のイデオロギーの根幹にかかわる民族主義の問題に抵触していたからである。2千7百万人の犠牲者を出した第二次大戦で、ユダヤ人の犠牲という個別の民族にのみ焦点が当てられることは、第1楽章で扱われているウクライナが、歴史的に反ソヴィエト的気分の強い土地柄であるだけに大きな火種を抱え込む危険性があった。それは、まさに現代のウクライナとロシアの確執にも通じる病的な部分を孕んでいたのである。
~亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P406-407
人間の愚かさをあらためて思う。
それは、言語化されたもの、つまり目に見えるものにのみ反応し、目に見えないものに対しては無視するという姿勢に如実に表れる。個人の問題に限らず、国家という体制にまでその常識が間違って跋扈するのである。
僕自身も思う。まさに「バビ・ヤール」においては、第2楽章以下に作曲者が込めた真意が隠されているのだと。
1977年1月からスタートした全集最後の録音。ハイティンクの、いよいよ手慣れたショスタコーヴィチ解釈が一層熱を帯びる(ソロモン・ヴォルコフの「証言」後の、垢抜けた逸品たち!)。
第2楽章アレグレットは「ユーモア」という標題を持つ。
王様、皇帝、帝王—
この世の支配者たちは
観兵式を思いのままにやれたが、
ユーモアには、ユーモアには命令できなかった。
・・・
彼らはユーモアを買収したがった。
それだけは買えないぜ!
彼らはユーモアを殺したがった。
だが、ユーモアに馬鹿にされた!
強烈な体制批判にもかかわらず、このあたりは目を瞑られたのだから面白い。
そして、第3楽章アダージョは「商店で」。
これがロシアの女たちだ、私たちの誇り、
そして私たちの裁きだ。
彼女たちはコンクリも捏ね、
耕やしもし、刈取りもした。
すべてに彼女たちは耐えてきた、
すべてに彼女たちは耐えていく。
人民の鬱積を何という暗澹たる鋭い音で表現することか。
さらに第4楽章ラルゴは「恐怖」。
私たちは吹雪の中の建設を、
砲弾の下の突進を恐れなかったが、
自分自身と話し合うことを
時おり死ぬほどに恐れたのだ。
私たちは倒されも、腐りもしなかった。
だからこそ、恐怖に打ち勝ったロシアは
今、敵たちの中に
さらに大きな恐怖を生み出しているのだ。
現実と向き合うことを、中でも自分自身と向き合うことから逃げてきた民衆への大いなる忠告。終楽章アレグレット「出世」で、真意をショスタコーヴィチは僕たちに語りかける。愚か者と当時罵られた地動説のガリレオ・ガリレイの例を引き、バス独唱が最後に歌う。
私は彼らの神聖な信念を信ずる。
彼らの信念は私の勇気だ。
私は出世をしないことを
自分の出世とするのだ!
やはりこれはただの音楽ではない。
全編に漂うリアリティは、聴く者に良心の呵責を強制する。
意志が、迷い人の勝手な思考が、世界をどん底に堕とす。
スターリンだって、ヒトラーだって、本性は慈愛のはずなのに、積年の悪業が世界を蹂躙し、迷路に叩き込んだ。その亡霊は、21世紀の今も時と場所を選ばず活動する。
真実を、真理を見極めよと天は言うのだ。
さて、あらためて第1楽章アダージョ「バビ・ヤール」に耳を傾けよう。
バビ・ヤールに 記念碑はない。
切り立つ崖が粗末な墓標だ。
私は恐ろしい。
今日、私は年老いているのだ、
あのユダヤの民族と同じだけ。
(歌詞のすべてはウサミナオキ訳)
7年前に聴いたテミルカーノフ指揮読響の実演は素晴らしかった。
あるいはまた、1975年、日本初演をしたワセオケと早稲田大学グリークラブによる模様にも僕は感激した。
1975.12.7ショスタコーヴィチ追悼演奏会 言葉と音楽が見事に同期するショスタコーヴィチの傑作。
雪を愛で、ハイティンクの「バビ・ヤール」を聴いて思ふ 