セルジウ・ルカのバッハ「無伴奏ソナタ&パルティータ」を聴いて思ふ

bach_luca目の前の世界が一瞬で光に包まれて開けた、そんな印象。
バッハの無伴奏曲は、これまで様々な演奏で聴いてきたけれど、こういう衝撃はいまだかつてなかったかも。ともかく純粋に音楽だけが鳴り響くことに目から鱗が落ちる。
いわゆるピリオド楽器によるものとしてはこの録音が世界初だったらしい。
演奏者自身による緻密で詳細な解説がまた素晴らしい。このライナーを読むだけでも大いに価値がある。

バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」の自筆楽譜は、バッハの意図を探る上で多くの手がかりを提供してくれるもので、そのタイトル・ページでさえ考察に値する。まず驚かされるのはLibro Primo(第1巻)と記されていることだ。無伴奏ヴァイオリンのための「第2巻」がかつては存在し、その後失われてしまったのだろうか?・・・(中略)・・・次に、「a Violino senza Basso Accompagnato(通奏低音なしのヴァイオリンのための)」という言葉がある。この書き方は、この音楽全体が無伴奏ヴァイオリンで奏されることを示すもので、大きなアンサンブルの最上声部を受け持つ楽器について述べたものではないことを示している。この明白な指定に対して、メンデルスゾーンやシューマンを含む19世紀の音楽家たちが、これらのソナタとパルティータはピアノ・パートを補って”補完”する必要があると考えたことは注目に値する。

なるほど、シューマンが伴奏を付した版は有名だけれど、バッハ本人の指定からすると邪道、異端だということだ。そう考えるとメンデルスゾーンもシューマンも先駆的な音楽家だったけれど、慣習という枠から抜け出すことはできなかったということか。
その事実だけを考えてみても、ヨハン・セバスティアン・バッハがいかに時代の先を行き、それまでの概念を覆す仕事をしていたかが理解できて興味深い。これこそ「時空を超える」という例の最右翼。

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(全曲)BWV1001-1006
セルジウ・ルカ(ヴァイオリン)

どちらかというと、僕はこれまで古楽器というものを信用していなかった。もちろん真新しさと新鮮な響きにそれを享受している瞬間は良いのだけれど、どんな作曲家のものでも繰り返し聴くならやっぱりモダン楽器によるものを常とした。
しかし、一体何が違うのだろう?ルカのこの演奏に限ってはソナタ1番の冒頭の音から明らかに何かが違うのである。そう、不思議な広がり。まるでサラウンド音響で耳にするかのような縦横斜めあらゆる角度への波動の放出。それだけで金縛りに遭うかのような刺激。
決して分析的過ぎることなく、インスピレーションに溢れ、聴くたびに新しい発見をもたらしてくれる奇跡。

ちなみに、演奏者は、パルティータ第2番の終曲「シャコンヌ」についても次のように解説する。

演奏面から見ると、シャコンヌはある種のジャズ―リズム・セクションに補強された固定されたバスを持ち、それを出発点として旋律楽器(トランペット、サクソフォーン、クラリネット)が名人芸的な即興を展開するタイプのジャズ―に似ていなくもない。

確かに・・・。そうか、ルカはジャズ的側面を意識して演奏しているということだ。決して即興ではないが、あくまで即興という感覚、意志を忘れずに音楽と聴衆に対峙しているということ。
さらに、使用楽器(1669年ニコラ・アマーティ)や弓(1650年頃の製作だろうと推定)についても詳細な解説が・・・。舌を巻く。

 


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