コリン・デイヴィス指揮ロンドン響のシベリウス交響曲第6番(2002.9Live)ほかを聴いて思ふ

幼少時の体験や環境こそがその人の人生に最も影響を与える。こと芸術家の場合、子どもの頃の環境が平和で無難であるよりも、挫折や苦悩を背負っていた方がよりインパクトのある創造的な成果が生み出せる可能性が高い。
作品ひとつひとつが崇高で革新的なレベルに達するシベリウスの場合も、彼の日常で見せた破滅的な側面は、若くして亡くなった父クリスティアンから潜在的に受け継いだもののようだ。

人はつねに父のもっと悪いところを受け継ぐものだ。君も知っているように、父は飲んだくれで遊び人だった。以前は裕福だったシベリウス家が没落してしまったのは、そのためさ。
(1891年2月10日付、アイノ宛手紙)
神部智著「作曲家◎人と作品シリーズ シベリウス」(音楽之友社)P17

相対で成り立つこの世界において、父性と母性の両方がバランスよくあることが、子どもの成長において大事な要素なのだろう。欠落から生じる欲求不満が反動として現れ、それがまたある時に類稀な創造的エネルギーとして発露するのだと思う。

ところで、吉松隆さんは、シベリウスの交響曲第6番から宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を連想すると常々語っておられるが、サー・コリン・デイヴィスの指揮する同曲を聴いて僕はユングの「赤の書」第二の書の第6章「死」の次の一節を思った。

「何に導かれて私のところに来たのだ?生きた物質よ。ここでは生きている人びとは決して客にならない。確かに彼らは皆大勢でここを悲しそうに流れて通りかかる。そのような人は皆、向こうの上の明るい昼間の国で二度と戻らないよう別れを告げた人びとだ。けれども生きた人は決して来ない。あなたはここで何を求めているのだ?」
「生の流れの道を希望で喜んで進んでいたら、奇妙で、思いもかけない道に導かれて、私はここに来ました。そしてあなたを見つけたのです。ここであなたは自分の正しい場所に立っているのでしょうね?」
「そう。ここからは区別のつかないところへと入っていくことになる。そこでは誰もほかの人と同じとか同じでないとかでなく、誰もがお互いに一つとなっている。あそこをやって来る者が見えるか?」
「流れの上を、こちらに泳いでくる暗い霊魂のようなものが見えます」
C.G.ユング著/ソヌ・シャムダサーニ編/河合俊雄監訳/河合俊雄・田中康裕・高月玲子・猪股剛訳「赤の書」(創元社)P309

死は終着点であり、また出発点だ。そこには間違いなく統合があり、シベリウスが交響曲第7番で示した一体化の片鱗が交響曲第6番に垣間見える。透明な死への憧憬と生への希望に満ちる音楽。すべては完全だ。

そして、奇しくもユングが同じ章の冒頭で書く次の言は、見事に交響曲第5番の世界を表わすよう。

次の夜、私は北の土地へと歩いていき、灰色の空の下で、霧で煙る冷たく湿った空気の中にいた。ゆっくりとした流れの川が、広い鏡にきらめきつつ、海に近づいていく低地を目指して私は進んでいる。そこでは流れのあわただしさがますます和らぎ、全ての力と努力が海の計り知れない大きさと一緒になってしまう。木々はまばらになり、遠くの沼の草地を静かな濁った水が伴い、地平線は無限で寂しく、灰色の雲がかかっている。ゆっくりと、息を抑えて、荒々しく落ちてきて泡を立て、果てしのないものへと流れ込んできたものが抱く大いなる不安な覚悟をもって、私は、兄弟である水に従っていく。その流れは静かで、ほとんど気づかれないほどで、それでもわれわれは絶えず浄福の、至上の抱擁に近づいている。それは起源の懐に、限りない広がりと計り知れない深さへと入っていくためである。そこでは低く、黄色い丘が盛り上がっている。死んだ広い湖がその麓に広がっている。それに沿ってわれわれは静かに歩き、丘は薄明りの、言い知れず遠くの水平線に開いていて、そこでは空と海が無限へと溶け合っている。
~同上書P308

冷たく湿った空気、静かな濁った水、無限の地平線と灰色の雲。
終楽章アレグロ・モルトの解放。最後の6つの和音は、他の誰よりも間を取り、雄大にかつ緊張感をもって閉じられる。

シベリウス:
・交響曲第5番変ホ長調作品82(1914-19)(2003.12.10&11Live)
・交響曲第6番ニ短調作品104(1923)(2002.9.28&29Live)
サー・コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団

第5番は第6番に影響を与え、第6番は第7番の完成によって完結する。各々の交響曲が連関する様に、バレンボイムがベートーヴェンの交響曲について語った言葉を思う。

サイクルとしてとらえることは、とても価値があると思っている。作曲家や作家の作品は一つ一つが、その次の作品を補完するものだから。ばらばらに切り離されたものとしては存在していない。ベートーヴェンの場合には、とりわけそのことが強調される。彼の場合、ほぼすべての交響曲がそれぞれ別の作風をもっているためだ。
アラ・グゼリミアン編/中野真紀子訳「バレンボイム/サイード『音楽と社会』」(みすず書房)P187-188

それに加えて、むろん作品群としての蓄積効果がある。前作の記憶の名残りがあるために、次の作品を演奏するときになんらかの影響が出る―たぶん聴き手にとっても同じことで、次の曲を違ったふうに聴くことになる。
~同上書P188

シベリウスの交響曲も、ベートーヴェン同様それぞれの作品は前作の影響下にありながら、新しくまったく違うものになっている。そういえば、ベートーヴェンの場合も、幼少時にアルコール中毒の父親から虐待を受けていたというのだから、環境的にはシベリウスに近い。なるほど、シベリウスこそがベートーヴェンの衣鉢を継ぐ人、否、そもそも生まれ変わりなのかもしれない。

 

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