知己の友人との2時間ほどの会話。そして、新しく知り合った方との2時間ほどのミーティング。いろんなヒントがいただけて、そして新たな突破口が見つかる。すべて人と人が生み出すシナジー。感謝。
新月。例によって一日断食。お茶と水だけで過ごすのだが、結構気持ちが良いもの。人は「食べること」に大変な時間とエネルギーを費やしていることがよくわかる。ふと「食べること」を考えてしまうことが一日に何度かある。そのたびに「自分に意識が向いている」ということが実感でき、良いとか悪いという意味ではなく、食べることを忘れるほど何かに没頭しているときは本当に意識が外に向かっているんだということが身に染みる。休肝日という言葉があるように、時には胃腸を休める日があってもいいんじゃないかとつくづく思う。
コレステロールいっぱいのリヒャルト・シュトラウスの音楽がこういうときにはぴったりかも・・・。一夜にしてR.シュトラウスの音楽漬けというコンサートは経験したことがないが、いかにも満腹になりそうなプログラムの実況録音盤を久しぶりに聴く。
何と素晴らしいキャスト!出色はアルゲリッチとの「ブルレスケ」であり、豪華声楽陣を揃えた「ばらの騎士」第3幕。シュトラウスの音楽はコントロールするのが難しそうだ。おそらく非常に効果的に作られているのだろうが、演奏者の匙加減一つで名演にも駄演にもなってしまう要素があるのだろう。残念ながらアバドの指揮による2曲の交響詩は全く感動しない。お耳直しに、以前にも採り上げた天下の名盤を取り出す。
R.シュトラウス:
交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28
交響詩「ドン・ファン」作品20
交響詩「死と変容」作品24
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
全ての音の意味深さよ・・・。有機的な響きが脳天を直撃する。おそらく録音そのものもフルトヴェングラーの残した音盤の中でも随一だろう。この有名な3曲の交響詩に関してはフルトヴェングラーの右に出る者は今後もなかなかいまい。お腹いっぱい・・・。
おはようございます。
フルトヴェングラーは、R.シュトラウスの音楽性の資質とはかなり違うと思いますが、「死と変容」など、決定盤の名に恥じない空前絶後の凄演ですよね。
考えてみれば、ベートーヴェンだってブラームスだって、フルトヴェングラーの本質とは全然違うわけで・・・、でも、だからこそ、ベト9やブラームスの4番など、波長が合った時には、凄い演奏が生まれたのだと思います。
このごろ思うのは、芸術におけるコラボレーションの重要性です。この「死と変容」の演奏は、作曲家R.シュトラウスと指揮者フルトヴェングラーの、異なった個性同士による、一種のコラボレーションによる芸術的触発の成果だと思います(アバドなど現代の指揮者の多くの演奏には、触発の要素が少ない)。
ところで、フルトヴェングラーの、1953年5月30日のベト9が発売されましたね。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2818820
レコ芸などでは絶賛されていますが、本当のところ、どうなんでしょうね?
>雅之様
おはようございます。
まずはマーラー10番の解説を送っていただきありがとうございます。先ほど無事受け取りました。
>この「死と変容」の演奏は、作曲家R.シュトラウスと指揮者フルトヴェングラーの、異なった個性同士による、一種のコラボレーションによる芸術的触発の成果だと思います
ここのところ僕も「関係性」に着眼してセミナーをやっております。人間で言うなら、「個々に問題があるのではなく(人間の本質は変らない)、人と人、人と自然、人と動物などその関係性に根本原因、問題がある」ということです。相手を責めたり、あるいは独り篭って内観するより、深い関係性の構築こそが「平和」に近づく大きなポイントだと考えるのです。音楽に限らず、そういう意味でのお互いの触発、コラボは重要ですね(あくまで形だけのものじゃなく、本質的につながることが大事ですが)。
そう、この第9はまだ聴いておりません。朝比奈先生の音盤同様フルトヴェングラーの残された録音で「正規で発売されたもの」は全て蒐集しているのですが(多分)、何だか最近は新しい録音が発掘されても飛びつくほど食指が動かなくなっています。多分結局買うとは思うのですが・・・(笑)。