エマーソン弦楽四重奏団の「フーガの技法」を聴いて思ふ

bach_the_art_of_fugue_emrson_qバッハを聴くというのは一種の禊のようなものである。決して気軽には聴けない。そして、その音楽に身を沈めるときには徹底的にその内に入り込まねばならない。もちろん楽曲によってはリラックスして聴ける瞬間も多々あるのだが。それでも、敬虔な信仰心を決して忘れず、その音の連なりに身を浸し切ることが大切だと僕は思う。

昨日、セルジウ・ルカの演奏を聴いて、その清澄な響き、そして直接的でありながら実にバッハの魂をして僕たちの魂までをも射抜くような音楽に思わず感動を覚えた。古楽器演奏にはこれまで幾度も触れているというのに、そんな感覚に陥ったのは初めてだったものだから正直吃驚した。

なぜか?彼自身の詳細な楽曲分析、そしてバッハへの洞察と愛、そういったものを鑑みた時に自ずと答が現れる。極めて実直に研究した後は、本当に自由に演奏しているようだから。思考を間に挟まず、とにかく感性で音を出す、そんな印象を僕は持った。そう、バッハの音楽は難しい。信仰と思考とに裏打ちされた音楽を、直観でもって聴衆に届けなければならないから。

ところで、ルカは解説の中で、ヨハン・マッテゾンの論文「旋律法精髄」(ハンブルク、1737年)からソナタ第2番のフーガについての次の部分を引用する。

誰が信じられるだろうか。これらの・・・短い音符の連なりが実に実り豊かなものであり、そこから五線譜1枚には書き切れないほどの対位法が、無理に拡大することなく極めて自然に引き出されるとは。しかも、この形式にとりわけ秀でている熟練のバッハは、この音楽を世に示すにあたって、主題をあちらこちらで転回形にして導入してもいるのである。

全脳の勝利というところだろうか。なるほどフーガというのは音楽形式の中で最も精密なもので、精神性においても相当高度なものだ。最晩年の「フーガの技法」を聴くにつけ、いつも僕は襟を正される。

J.S.バッハ:フーガの技法BWV1080
エマーソン弦楽四重奏団(2003.1&2録音)

楽器指定の定かでないこの曲集は、一般的にはチェンバロやオルガンという鍵盤楽器で弾かれることが多い。しかし、僕はこのエマーソンの演奏を聴いて以来、「フーガの技法」といえば真っ先にこの音盤を思い出す。4つの弦楽器が織り成すまさに「音のタペストリー」であり、おそらく時代考証的には正しくないのだろうとはわかっていても、その優しく憂いのある響き、そして時に力強く喜びに満ちた響きに癒され、勇気づけられるのである。ここにはバッハのすべてがある。いや、西洋古典音楽の先にも後にもなかった(ない)答のひとつがあると言っても過言でない(ベートーヴェンの生み出したフーガ同様)。フーガという形式は一体何を意味するのか?同じ旋律複数の声部に現れ、それが絡み合いながら見事にひとつに昇華されてゆくという極意。まさに人と人、人と自然、自然と宇宙・・・、それぞれの世界で相対するものを「一」に収斂させようとする力と相似形ではないのか。

音楽が終わった。また最初から・・・。何と崇高でありながら人の温かみに満ちることか。なるほど「天人合一」の象徴のような音楽だ。

※過去記事/2009年4月17日:「風雅」

 


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