ベルナルト・ハイティンクの「バビ・ヤール」を聴いた。もともとハイティンクの音楽にはそれほどシンパシーを感じることはないのだけれど、ショスタコーヴィチの全集に限っては最初から違った。どの作品も実に洗練され、音楽がとても有機的に響き、何より全体像がつかみやすかった。ルドルフ・バルシャイのものはロシア的魂が込められ過ぎていて、そうそう繰り返し聴くのは勇気が要るのだけれど、ハイティンクのものは違う。何度聴いても疲れない。おそらくそれは「共感」の量に起因するのかも。実に客観的な音楽作りなのである。そうなると、物足りないと感じる愛好家も多いのでは?そう、悪くいえば形骸化された腑抜けのようなショスタコーヴィチに聴こえなくもない。しかしながら、特に「バビ・ヤール」などはそのくらいの方が都合良い。同情も動揺も、皮肉も嫌悪も、感情的に一切触発のない名演奏。こういう録音芸術はきっと長生きするだろう。
相変わらず風雪激しい。外に出るのも億劫、というより厳しい。
ロシアの極寒の荒涼とした大地を想像させるなら断然バルシャイ盤なのだけれど、今日のところは勘弁願う。感情移入なく、すべてを忘れて「バビ・ヤール」に浸る。
あわせて問題の書「ショスタコーヴィチの証言」をひもとく。今となってはこの内容をそのまま事実として素直に受け容れることはできないのだけれど、100%創作だとも言えないのでは。作曲者自身の脳みその片鱗は少なくとも覗くことができそうゆえ。
わたしは最後にアメリカに行ったとき、映画「屋根の上のヴァイオリン弾き」を見た。その映画で感動させられたのは、なによりもまず、祖国に対する郷愁である。音楽や踊りや色彩、そういったすべてのものをつうじてそれが表現されているのだ。いくら祖国がどうしようもなくひどいもので、無愛想で、母というよりもむしろ継母といったほうがよさもうなものであったにしても、それでもやはり、人々は祖国へ思いをはせ、郷愁に心をかきむしられるのである。この郷愁が重要なものであると思われる。
もちろん、もしもユダヤ人が自分の生まれたロシアで平穏に幸福に生きてゆければ、よいことだっただろう。しかし、反ユダヤ主義の危険については、いつでも思い出さなければならないし、そのことをいつでも人々に思い出させなければならない。なぜならば、この伝染病は生きているし、それがいつ死滅するかはわからないのだから。
それだからこそ、エフトゥシェンコの詩「バービイ・ヤール」を読んだとき、わたしは嬉しくなった。
(ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」)P280
まるで「郷愁」を感じさせない「中庸」の「バビ・ヤール」。
ショスタコーヴィチ:交響曲第13番変ロ短調作品113「バビ・ヤール」
マリウス・リンツラー(バス)
ロイヤル・コンセルトヘボウ男声合唱団
ベルナルト・ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1984.10録音)
第2楽章「ユーモア」はアイロニーを切り捨て、直球勝負。まったくショスタコーヴィチに共感していないように聴こえるのだけれど・・・。しかし、それが逆に音楽を聴く者との距離を縮める。
そして、バス独唱と合唱が交互に歌う第3楽章「商店にて」の静けさ。クライマックス時のオーケストラの絶叫を抑制し、詩によって音楽を語らせる妙。第4楽章「恐怖」にも決して「怖れ」の感情は表に出ない。その代り感情を超えた神々しさに溢れる。特に男声合唱の粋!音調をそのままに終楽章「出世」は見事に「無の世界」。
これほど純音楽的な「バビ・ヤール」はないかも。
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