バーバラ・ボニーの「モーツァルト歌曲集」を聴いて思ふ

mozart_lieder_bonney「自由」と「歓喜」は古より人々が希求する二大要素なのかもしれないと思った。ベートーヴェンの「歓喜の歌」の原詩であるシラーの「歓喜に寄す」は、もともと”Freude”(歓喜)ではなく”Freiheit”(自由)だったという説もある。ベルリンの壁崩壊時にバーンスタインが東西の混合オーケストラを振って第9交響曲を演奏した時に歌詞を「歓喜」から「自由」に替えて歌わせたことは有名な話。確かにドイツ語の音節的に”Frei-heit”が正しいだろうことは理解できる。しかしながら、言葉の意味、あるいはシラーやベートーヴェンが目指した世界観(特に、専制君主制から民主主義に移りゆくあの時代の精神)を表現する意味においてはどちらでも正しいのではないかと思えるのだ。

神の子モーツァルトにも、その2つの概念をタイトルにした歌曲がある。1768年秋にウィーンで作曲された―そう、グルックらの陰謀によって歌劇「ラ・フィンタ・センプリーチェ」が思うように上演できなかったあの頃―ヨハン・ペーター・ウーツの詩による”An die Freude”(歓喜に寄す)K.53と、1785年末、すなわちフリーメイスン入会後にヨハネス・アロイス・ブルーマウアーの詩に音楽を付した”Lied der Freiheit”(自由の歌)K.506である。

賢者たちの女王たる歓喜は
そのこうべには花をいただき、
お前を金色の竪琴でたたえ、
おだやかに語るのだ、愚行が息まくとき。
(歌詞対訳:海老沢敏)

12歳のヴォルフガングが初めて書いた歌曲は実に可憐だ。当時、父親のレオポルトは世間の不条理に怒りを露わにし、

世の中はどんなにつかみ合いの喧嘩をして渡っていかなくてはならないものか、おわかりでしょう。人間が才能を持たなければ、それで彼は充分不幸ですが、才能を持っていれば、その技量に応じて妬みにつけまわされるものです。
高橋英郎著「モーツァルトの手紙」P52)

と手紙に残しているほどだが、息子はそんなことにはまったく動ぜず、自身の気に入った詩に信じられないほど冷静に美しい音楽を付すのである。

モーツァルト:歌曲集
・歓喜に寄すK.53
・落ち着きはらってほほえみながらK.152
・鳥たちよ、毎年K.307
・さびしく暗い森でK.308
・おお、神の子羊K.343
・すみれK.476
・自由の歌K.506
・ひめごとK.518
・春への憧れK.596
・喜びの気持ちをK.579ほか
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
ジェフリー・パーソンズ(ピアノ)(1990.8録音)

一方、フリーメイスンの指導者であるブルーマウアーの詩に曲を付けたK.506。
恋愛だろうと君主に仕えることであろうとがんじがらめになっている奴は不幸だと。あるいはお金に執着している者も可愛そうだと。自分のためだけに生き、嬉々と楽しむ者が幸せなんだとここで歌われる。
モーツァルトの音楽は、前奏から眼前が見事に明るくなる。絶頂期の彼の余裕のようなものを感じさせる音調だが、「自分のためだけに生き」という件がどうも気になる(笑)。この後、急激に彼の音楽は深度を高め、一般大衆からはそっぽを向かれるようになるわけだから、いかに天才といえども少々高を括ってしまったのかもしれない。少年時代から全く変わらぬ彼の(よく言えば)無邪気さが出た、そんな瞬間・・・。

名曲「すみれ」「春への憧れ」などは、もう少し深みのある老練の響きがどちらかというと欲しいところだが、それにしても若きボニーの歌声の溌剌とした美しさ。

 


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