クレンペラー指揮ウィーン・フィルのマーラー交響曲第9番(1968.6.9Live)を聴いて思ふ

mozart_jupiter_klemperer_vpo今や世界は女性性の時代(といわれる)。
物事を円滑、円満に進めるために柔和で息の深い「女性らしさ」を前面に押し出すことが重要。音楽の解釈も前世紀の遺跡のような「男性なるもの」中心でなく、「女性なるもの」をより強調すべきときなのだろうと僕は思う。

大局観のグスタフ・マーラー。極力音量を抑えず、中庸を保ちながら音楽の本質を突く様。晩年のオットー・クレンペラーは悟りを得ていたのかどうなのか、全体を包括し、しかも瞬間は実に繊細な音楽に溢れる。全体最適と部分最適の極致。うなりを上げ、囁きかける音楽の妙。これほど有機的に響く演奏はなかなかお目にかかれまい。まさに母なる音楽。

人間というものは面白いもので、神様から「我(エゴ)」というものを授けられているがゆえ、問題に直面すると目先のことしか見えなくなる。そんな中で意識の変革を起こすのは至難でも何でもなく、ただ脱力で委ねるだけ。
なるほど、クレンペラーのマーラーを一言で表現するならそれ。つまり、一切の力みなく、ただひたすら音楽に奉仕するマーラーなのである。

交響曲第9番は確かに名曲だと思う。しかし、古今東西、名演、凡演、駄演と、解釈を選ぶ。

・マーラー:交響曲第9番ニ長調
・J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1番ヘ長調BWV1046
オットー・クレンペラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1968.6.9Live)

クレンペラーがマーラーの最高傑作と讃えるように、この9番の堂々たる威容。そして、呼吸は相変わらず深い。テンポは当然遅い。しかし、決して音楽の流れが停滞することのない、あくまで客観的な醒めた演奏であることがむしろ驚異。
鷹揚な第1楽章アンダンテ・コモードが素晴らしい。旋律は優しく歌われ、咆えるところは咆え、静けさを要するときはとことん静けさを獲得する。
激烈な第3楽章ロンド・ブルレスケの諧謔もクレンペラーならではの奥深さ。
しかし何より絶対は、終楽章アダージョ。終始強めに奏される音楽は、決して色褪せず、最後の一音まで意味深く聴く者を別世界に誘う。
地獄のような壮絶な闘争あり、あるいは天国的な愉悦と美しさもあり。
音楽が高揚した後、静かになって徐々に消えゆく様は魂の昇華の如し。
クレンペラーのマーラーは実に包容力豊かな女性性の権化。
終演後の聴衆の慈しみに溢れる拍手が、この音楽の偉大さを一層際立たせる。

 

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2 COMMENTS

雅之

女性的な話題にクレンペラー&VPOのマーラーとはビックリポンだす(笑)。

男の中の男の権化のような一生を送ったクレンペラー先生に、ハープ奏者に至るまで全員男という昔のVPO、言わば男子校オケが奏でる「女性的なマーラー」ですか。歌舞伎の女形集団ですね、女性よりも女性らしいという・・・。

そういえば、昔カラヤンが「BPOが正妻なら、 VPOは愛人(恋人?)」とか言ってましたが、考えてみればあれも全員男の世界だけでの話でしたね、ザビーネ・マイヤーが呼ばれる前までは。昨今の日本の中高生の吹奏楽の世界とは大違い(笑)。

男女共学オケもいいですけど、男子校オケがちょっと減りすぎで嬉しいような寂しいような・・・。

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岡本 浩和

>雅之様
笑っちゃいますよね。
はい、あえてクレンペラー&ウィーン・フィルをそんな風に聴いてみました。
無理矢理感ももちろんありますが、男ばっかりの集団であるがゆえの「女性的なるもの」を必死に聴き取ろうとがんばった次第です。
倒錯的に聴けばなるほどそういう風に聴こえてくるものです。
と、かなり正当化しておりますが、昨夜はかなり酔っておりまして、僕の感覚の方がおかしくなっていたようにも思います。お許しを。

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