朝比奈隆&大阪フィルのブルックナー交響曲第7番を観て思ふ

bruckner_7_asahina_osaka_19991105春先の激しい雨風。不要なものの一切を取り除こうとする力、そこにあるのはあくまで「自然」。人間がどんなに踏ん張ろうと、あるいはどれほど小手先で取り繕おうとしても大自然には敵うまい。ブルックナーの音楽に自然の鳴動を見る。

言葉で言い表し難い音楽体験というものがある。その時のことを正しく記憶し、いつどんな時もまざまざと思い起こすことができる「体験」。1980年に初めて朝比奈隆&大阪フィルの第7交響曲に触れて以来、僕にとってブルックナーの音楽というのは特別なものだった。以降、幾度も彼らの実演に触れたけれど、「第7番」に関しては次の機会までに20年近い年月を要したのではなかったか・・・。

晩年になるにつれテンポを速める朝比奈のブルックナーはいつも若々しく、しかもそれ以外にないだろうという解釈が示された。そして、時によっては凡演と化す朝比奈芸術ながら、ブルックナーに関してはいつどんな時も金縛りに遭うが如く感激した。

特に、第1楽章の、インテンポで悠然と進むコーダに在る「箴言」は他の誰にも真似のできないブルックナーの真髄を突いていた。

ともかく言葉にならない(できない)。
文章にしようと躍起になればなるほどすべてが陳腐なものになる。誤解すら招くのではないか・・・。それは御免だ。

ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ハース版)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1999.11.5Live)

asahina_1999_11_05_suntory奇しくもサントリー会長(当時)佐治敬三氏の告別式と重なったコンサートの記録。朝比奈御大を含め奏者全員が喪章をつけ当日の演奏に臨んだこの日の会場に僕はいた(1階2列13番)。久しぶりに映像を観て、すべてが思い出された。明らかにテンポが速く、それでいながら厳かに粛々と音楽が進行する第7交響曲に震えた。特にアダージョ楽章の、ハース版独自の打楽器のないクライマックスの「意味」が身に染みた。続くコーダにおけるワーグナー・テューバの葬送の調べは一際感慨深かった。

江崎友淑氏の演出による映像なのだが、不要な「重ね合わせ」が頻繁にあり、今となっては煩わしく、いかにも時代遅れの感。

 


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3 COMMENTS

畑山千恵子

私も聴きに行きました。これが東京での朝比奈さんの最後の演奏になってしまいましたね。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
記憶違いでは?
この後、2000年と2001年に東京公演がありましたし、2000年にはN響にも客演してます。それと2001年の都響もあったかと・・・。

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