マタチッチ&ザグレブ・フィルの「ドイツ・レクイエム」を聴いて思ふ

brahms_deutsch_requiem_matacic決して感傷的にならずこれほど壮絶な「ドイツ・レクイエム」が他にあろうか・・・。
何年もの推敲を経て世に問われたこの作品は稀にない成功を見た。それでも作曲者は自信を持てなかった。

1867年ウィーン。
ペストでは寒暖計が28度もあった。コンサートはうまくいったけれど、僕はさしずめシーズンたけなわに成功を逃したばかりか、絶好の機会に「レクイエム」を発表しそこねた「のろまの二乗」だね。
音楽が君自身と聴き手にどんな喜びを与えるか、それをどれだけ理解しているのか聞かせてくれないか。
「ブラームス回想録集Ⅰヨハネス・ブラームスの思い出」P64

元気?僕の筆不精のせいで、手紙の行き違いが防げたのは、これで二度目だね。急ぎ認めるけれど、明日親父と上オーストリア州の旅に出る。帰りがいつになるかわからないので、一緒に送った「レクイエム」は、連絡するまで保管しておいてください。他にまわさないで必ず手もとに置くように。そしてどう思ったか、厳しく書いてね。
1867年ウィーン。
~同上P66

でも「レクイエム」が本棚にまた並ぶのを早く見届けたい。だから感想も音符も何も付け足さないで送ってください。
1867年ハンブルク。
~同上P67

残念ながら交響曲はお見せできないけれど、ここで一日かけて、僕の演奏する通称「ドイツ・レクイエム」を聴いてくれたら嬉しい。
1867年ハンブルク。
~同上P67-68

上記はすべて友人のアルベルト・ディートリヒがブラームスから受け取った手紙の抜粋である。何という慎重さ、謙虚さ、あるいは劣等感とでも表現するのか・・・。

実際に「ドイツ・レクイエム」が書き始められたのは1857年頃らしい。師であるロベルト・シューマンの前年の死が契機となっている。それから10年近くをかけ、幾度も試演を重ね、ようやく1868年4月10日に初演が行われた。ディートリヒの報告では次のようにある。

大聖堂がこれほど人々で満たされたこともなければ、熱狂が渦巻いたこともない。演奏はただただ圧倒的で、聴衆は「ドイツ・レクイエム」が、人類に供された大名曲と肩を並べる作品だと、その場ではっきりとわかったのである。
~同上P70

そう、ヨハネス・ブラームス随一の傑作と言っても過言でない。

ブラームス:ドイツ・レクイエム作品45
ブランカ・ベレトヴァチ(ソプラノ)
ウラディーミル・ルジャック(バリトン)
ザグレブ放送合唱団
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団(1976.6.4Live)

きれいにまとめようなどという意思はここにはない。マタチッチの指揮は真に豪放磊落。悲しみが反映され、祈りに満ちる。しかも、呼吸が深く、悠然とした足取りのブラームス。そして、やっぱりティンパニの轟音が魅力的。例えば、第2曲「何故ならすべての肉なるものは草に等しく」の、死した者がいかにも目覚めてしまうかのような強烈さ!!

 


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2 COMMENTS

畑山千恵子

「ドイツ・レクイエム」はブラームスの音楽の本質が現れています。ブラームスが「ドイツ・レクイエム」に取り組んでいた時期、1862年、1864年、ヴァーグナーに会いました。ブラームス文献では1864年のみを取り上げ、1862年の出会いを無視しがちです。ヴァーグナー文献では1862年、1864年を取り上げています。ヴァーグナーは「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に取り組んでいました。「マイスタージンガー」にはヴァーグナー、ブラームスが同居しているともいえます。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様

>「マイスタージンガー」にはヴァーグナー、ブラームスが同居しているともいえます。

なるほど!盲点でした。そういう視点で「マイスタージンガー」を聴いてみると新たな発見がありそうです。
ありがとうございます。

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