アントン・ブルックナーの習作を聴いて思った。
この、どこか独特の方言を秘めた他にはない味は、いかにも野人らしいもので、その方法は交響曲を書き始めた最初からすでに彼の手の内にあったのだと・・・。
特に、いわゆるスケルツォ楽章はある意味元から完成されており、ブルックナーの土俗的、また原始的舞踏の原初であると確認した。
なるほど、人間というもの、育った環境の影響を直接に受け、しかもそれは拭い去ることが決してできないものだということだ。そう、育ちを見ればその人の持っているものはほぼわかるのである。
その時寝ていると思った妙子が、
「中姉ちゃん、起きてるのん?・・・」
と、しずかに寝姿を崩さずに云った。
「ふん、・・・あたし、ちょっとも寝られへんねんわ」
「うちかて寝られへんねん」
「こいさん、さっきから起きてたのん?」
「ふん、・・・うち、場所が変わると寝られへん」
「雪子ちゃんはよう寝てるわな。鼾搔いてるわ」
「雪姉ちゃんの鼾、猫の鼾みたいやわ」
「ほんに、『鈴』があんな鼾搔くわな」
「呑気やわ、明日見合いや云うのんに。・・・」
幸子は、「眠り」にかけては雪子よりも妙子の方が神経質であったことを思い出した。
~谷崎潤一郎著「細雪・下巻」(新潮文庫)P39
何て可愛らしい。関西弁の柔らかな響きは、幼少から使用しているせいか、実に心にすっと響く。
そう、こういう純粋な音響がブルックナーの味なのである。それが、初期の作品に後期のものより余計に刻まれるのだから、ブルックナーの醍醐味はある意味最初の頃にあるのだと思う。
・ブルックナー:交響曲ヘ短調(1863年)
エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団(1992.5録音)
充実の第1楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ。冒頭の主題からいかにもブルックナーの旋律であることがわかる。一層素晴らしいのは第2楽章アンダンテ・モルトの、後年の作品に見る峻厳さと崇高さの片鱗。13分余りのこの楽章こそが、交響曲作家としてのブルックナーの天才の刻印。この音楽を旗印としてブルックナーは生涯交響曲を追ったのだろうと僕は思った。
エリアフ・インバルの偉業。
何て自然体の音楽。
ブルックナーは音楽祭の最中にミュンヘン歌劇場の指揮者、フランツ・ラハナーに自己紹介し、ヘ短調交響曲を含め自作を見てもらった。彼は近年中にこの交響曲を演奏してもよい、今年はヘルベックの曲をとりあげることになっているので無理だが・・・、と答えたというが、この答は結局実現されることなく終わる。
~根岸一美著「作曲家◎他人と作品シリーズ ブルックナー」(音楽之友社)P33
ブルックナーの失望は大きかったろう。
しかし、それにもまして、彼は世間に認められんと希望をもって創作に没頭した。
エリアフ・インバルの慧眼。何て洗練された音楽。
ところどころに魅せる、終楽章アレグロの自然美と明朗さ。さすがにやや軽いのは致し方ないにせよ、是非とも一度実演に触れてみたい。
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>特に、いわゆるスケルツォ楽章はある意味元から完成されており、ブルックナーの土俗的、また原始的舞踏の原初であると確認した。
>なるほど、人間というもの、育った環境の影響を直接に受け、しかもそれは拭い去ることが決してできないものだということだ。
又吉 直樹 (著)「 火花 」(文春文庫) から、先輩漫才師 神谷の台詞(P21)
「漫才師である以上、面白い漫才をすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん。だから、お前の行動の全ては既に漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまり賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」
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>何て可愛らしい。関西弁の柔らかな響きは、幼少から使用しているせいか、実に心にすっと響く。
ど、ど、ど・・・、同感です。
>雅之様
こうやって引用をいくつかいただくと「火花」というのは示唆に富んだ言葉が実に多いですね。
芸人というのはやっぱり芸術家と≒なのだと痛感します。
>ど、ど、ど・・・、同感です。
笑