フルトヴェングラーのブラームス交響曲第4番(1943)を聴いて思ふ

brahms_4_furtwangler_bpo_1942年度末である。
新月である。冷たい夜風が神々しい。
すべてに始まりがあり、終わりがある。そして、終わればまた新しい「時」が起こる。

あえて「言葉」に託さず、たた感じるがままに音楽を聴く。
それならば、フルトヴェングラーだ。それも戦時中のいわゆる「メロディア」盤から。
当時の、旧フィルハーモニーでのコンサートの模様を記録した音盤たちはどれをとっても若々しい推進力に溢れる。とはいえ、音楽の基本的解釈は晩年まで一切変わることがない。

たった今、目の前で音楽が「再生」されるという喜び。

弟と二人で朝早く散歩していたら、ノイベルクからの街道でブラームスに会った。彼は散歩の帰り道で、完全に自分だけの世界に浸っており、ウキウキと帽子を振り回し、道端の草を撫でながら歩いていた。・・・「自分の世界」とは、その週のうちに完成した、「交響曲ホ短調」だった。
リヒャルト・フェリンガー
「ブラームス回想録集②ブラームスは語る」P240

両親はこの交響曲を聴いて、最初から強烈な印象を受けた。音楽学者や音楽家たちは、はじめ否定的な批評をしたけれども、二人の喜びと陶酔が薄まることはなかった。まさしく「理解すべき人が、何もわかっていない・・・」(シラー「信仰の言葉」より最終章第3節「文芸年鑑」1798年)のである。
リヒャルト・フェリンガー
~同P242

ブラームス:
・交響曲第4番ホ短調作品98(1943.6Live)
・ハイドンの主題による変奏曲作品56a(1943.12Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1885年10月25日の、ブラームス自身の指揮による初演の演奏がどんなものだったのかは空想するしかない。しかし、フェリンガーの両親が感じた「強烈な印象」というのはよくわかる。
おそらくそのことを体現するのがフルトヴェングラーの演奏だ。特に終楽章パッサカリアの興奮は、いくつか残されている彼の実況録音の中でもこの年のものが随一であり、第24変奏以降のクライマックスに向けてのアッチェレランドの驚異とエネルギーの放出が聴きもの。

すべてが浄化され、そしてまた新しい「時」が始まる。

 


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2 COMMENTS

畑山千恵子

ちなみに、ブラームスをこき下ろしたことでは有名なフーゴー・ヴォルフは、この作品を
「残念だが、気に入ったよ。」
と漏らしました。それだけ、ブラームスの音楽に打ちのめされたようですね。

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