キャメロン&ソダーバーグの「ソラリス」を観て思ふ

solaris_cameron_soderbergh愛する人が亡き後も愛は死なず。そして、死は支配を止める。
ディラン・トマスの詩を中心主題におき、いかにも哲学風の解釈でリメイクされたこの映画は実に鮮烈で、奥深い。それは、ある意味タルコフスキー以上にリアルで、スタニスワフ・レムの原作に忠実であると言える。

しかし、ここにあるのはいかにも「現代社会」に見る病巣だ。人間の内に在るのは「愛」などというものとは程遠く、「依存」以外の何者でもない。「依存」によっては何も生み出さない、むしろあるのは「悲劇」だけだという、そのことを僕たちに警告する。

中で、ジバリアン博士がクリス・ケルヴィンに語る言葉が重い。

必要なのは別世界ではなく、自分を映す鏡だ。

そう、現象はすべて自身の鏡であり、夢でも幻でもないということを暗に仄めかす。実際、僕たちが遭遇する出来事や事象すべては自らの願望の表れであり、少なくともこの映画における問題同様誰の前にもこういう人間関係の問題が存在する。

不安や恐れからクリスは一旦「客」であるレイア(タルコフスキー版ではハリー)を宇宙空間に放り出し、抹殺する。しかし、人間でないソラリスの一部であるレイアは再び目の前に姿を現すのだ。もちろんそれは彼女の中にあるかつての「依存」すなわち「夫に対する拭いきれない不信、怨念」と、クリスの内にもある「後悔と自責の念」と同じく「依存」に喚起されるものだ。そう、この物語でのふたりの感情はいわば「愛」という衣装を着た「不安や不信」というものに過ぎない。時間を経るにつれクリスは「彼女」にはまってゆく。ところが二人の距離は縮まるどころかすれ違う。最後、結果的にレイアはクリスを見捨てることになるのだ・・・。

なるほど、ひょっとすると永遠の純粋愛というのは死の世界でしかありえないということをここでは示唆しているのだろうか?死によってしか本当に愛はひとつになり得ないのか?これはほとんどリヒャルト・ワーグナーが夢見た世界に近い。いかにこの現実社会が「ゲームの応酬」で成り立っているということだと考えられなくもない・・・(人間は作られたシステムに上で踊らされているようなものだ)。

自殺前のレイアにクリスは言う。「心を閉ざされるのは耐えられない」と。自分のことは棚に上げてだ。そう、人間は「不安」から心を閉ざす。どんな人もだ。しかし、幸いなことにその事実を変えることはできる。鍵は「勇気」という名の徳。

僕は思った。

「人は皆心を閉ざしている。自分の心には鍵をかけて他者には心を開けと要求する。そのことに各々が気づき、誰もが自ら心を開くようになったらこの世界は変わるだろう」

「限られた知識と不十分な証拠に基づき行動を起こすという勇気」

そう、前提は、人と人との本来の「つながり」を呼び覚ますこと。「つながり」を体感することができればそれは可能だろう。

スティーブン・ソダーバーグ監督・脚本&ジェームズ・キャメロン製作
「ソラリス」
ジョージ・クルーニー(クリス・ケルヴィン)
ナターシャ・マケルホーン(レイア)
ジェレミー・デイヴィス(スノー)
ビオラ・デイヴィス(ゴードン)
ウルリッヒ・トゥクール(ジバリアン)
クリフ・マルチネス(音楽)

僕はどうにも腑に落ちない。なぜ皆ソラリスの事実を隠そうとするのか?簡単には信じてもらえないからか?いや、それは違う。そう、やっぱり「事実」を開示すれば「システム」が崩壊するから。そこには人間の原罪としての「不安」が横たわる。

終盤、タルコフスキー版にはないシーンがあった(多分原作にもなかったように記憶する)。
「客」が人間スノーを殺し、スノーになり切っていたという事実が暴露されるところ。そう、幻が実体を占有し、誰もがそのことに気づかないという恐ろしい事実。

なるほど、そのことこそが現代社会が抱える問題の源であり、そのことを現代の僕たちすべてに知らしめようとソダーバーグ&キャメロンはあえてこの作品を復活させたのでは?今こそ人類はひとつになるべき時なのだ。そしてそれには、ひとりひとりが「閉ざすことなく」、勇気をもって行動を起こすことが重要。

 


人気ブログランキングに参加しています。クリックのご協力よろしくお願いします。
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む