アバド&ルツェルン祝祭管のマーラー第5交響曲を観て思ふ

mahler_5_abbado_lucerne_2004これほど見通しの良いマーラー第5番は初めてかも。
今から10年前のルツェルン音楽祭での映像。大病後、クラウディオ・アバドの音楽は本当に変わった。分厚いオーケストレーションを施された大交響曲であるにもかかわらず、軽快かつ透明で、とても人間臭いマーラーの作品とは思えない。
例えば、フィナーレに現れる、第4楽章アダージェットとの共通主題に耳を(?)瞠った。一旦ガクッとテンポを落とし、この愛の旋律をじっくりと、であるが粘らずに鳴らす妙味。思わず快哉を叫んだ。

ともすると、支離滅裂さばかりが耳について聴いていられなくなる第5交響曲において最初から最後まで、それも惹きつけられたまま一気に鑑賞できたのは久しぶりかも。どの楽章も有機的に絡み合い、特に、第1楽章で過去の自身を葬り去り、第2楽章以降アルマ・シントラーとの新しい生活への希望と憧憬に満ちた音楽であり、そのことを自らに宣言する作品だということがようやく理解できたように思う。

最愛の友よ!やっと出来上がった!「第5」はつまり、もうここにある!ずっと張り詰めて仕事をしてきたけれど、はなはだ新鮮だ。今度は宮仕えの軛が待っているよ!
郵便到着の消印1902年8月24日、ニーナ・シュピーグラー宛
ヘルタ・ブラウコップフ編・須永恒雄訳「マーラー書簡集」P290

いかにも緊張と弛緩が入り乱れる様が想像できる。その精神状態がそのまま音楽に刻まれるのだ。

マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
クラウディオ・アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団(2004.8.18-19Live)

アバドの終始愉悦の表情に心が動く。何という鮮烈で動的な指揮姿か!音楽そのものを身体で表現し、マーラーへの愛情が身体中から湧き出づる、そんな動きなのである。
白眉は第3楽章スケルツォ。立ち上がって吹かれるホルンの巧さに感服。何より音楽の躍動感が素晴らしい。
ちなみに、第4楽章アダージェットに関しては実にそっけない(笑)。ほとんどフィナーレの序奏的役割であると割り切っているかのような印象。僕的にはもう少し粘着質でうねりのある音楽を期待するのだが、全体のバランスから考えるとこういうことなのだろうか・・・。

彼の地の人々がどんな反応を示すか。いままだ定かではありませんが、このような機会にはあなたのような方に立ち会っていただきたい、と思うことは自然です。上首尾にいくかもしれませんし、そこに立ち会うことはあなたにとって可能でもあり、十分面白いことでもあると思います。そうしていただければたいへん嬉しいことですし―正直申しますと―心が落ち着くのです。
1904年9月、アルトゥール・ザイドル宛
~同書P310

マーラー自身の期待と不安が入り混じる様が手に取るようにわかる。
果たして当時の聴衆はこの音楽を即座に理解できたのか?いや、それは無理だろう。
初演の後、マーラーは語っている、「第5」は呪うべき作品だ、と。

この交響曲はいかに即物的に表現するかがポイントなのではないか、そんなことをこの映像を観て思った次第。

 


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