ギーレン&南西ドイツ放送響のマーラー交響曲第10番を聴いて思ふ

mahler_10_gielen_swr_sinfonieorchesterアルムシの手紙でとても心配になってきました。じつに妙な調子の手紙なのです。いったい何が起こったというのでしょうか?
1910年6月20日頃、アンナ・モル宛
ヘルタ・ブラウコップフ編・須永恒雄訳「マーラー書簡集」P405

今やしかし、アルマをふたたび健康な子にするために、あらゆる手立てを尽くさなければなりません!
1910年7月、アンナ・モル宛
~同書P409

問題はグスタフ・マーラーの手紙類がアルマの手によって編纂されていることだ。おそらく自身に都合の悪いものは意識的に削除されているだろう。つまり、「真実」が葬られ、やっぱり「わからない」ということ。

グスタフの内側に在った「不安」とアルマの内側に在った「不安」というのはそもそも次元の違う異質のもの。ゆえにグスタフとアルマは結局「つながっていなかった」。否、少なくともアルマは誰とも本当の意味では「つながれなかった」と僕には思われてならない。根底に感じられるのはやはり「依存」という気質・・・。

再び交響曲第10番。繰り返し聴くほどに、この作品に込められたマーラーの苦悩と諦めと、さらにはアルマへの直情的な愛、そして翻弄される不安が入り乱れていることがわかる。自身によって完成されなかったことがいかにも残念。音楽は、マーラー流変化球的小難しさが減退している分、わかりやすくなっているのも確か。

マーラー:交響曲第10番嬰ヘ長調(デリック・クック版)
ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ放送交響楽団(2005.3.17-19録音)

当時のマーラーは交響曲第8番の初演の準備で忙しかった。一方のアルマは湯治先でワルター・グロピウスと出逢い、恋に落ちている・・・。

私はごく好調です。ご存知のように、私は孤独を、あたかも酒飲みが酒を嗜むようにこよなく嗜むのです。万人がこれを年に一度は必要とするとすら思っております。そのような一種の煉獄(プルガトリオ)―あるいは場合によっては精神の精錬作用―どちらもそのとおりです。
1910年、カール・モル宛
~同書P410

ここでマーラーは孤独な時間を持つことをあえて「プルガトリオ」と呼んでいるが、それを万人共通のものだと誤解しているところが問題。アルマは寂しかった。依存気質の彼女は一向に満たされなかったのだ。

アルマの頭文字をとったトランペットによるA音の痛切な叫び。
なぜかはわからないが、ミヒャエル・ギーレン指揮南西ドイツ交響楽団による演奏におけるそのフレーズに強烈に惹かれる。終楽章の崇高さはいかばかりか。死への恐怖が消え去り、いわゆる人間的色彩を超えた純白の世界というのは言い過ぎか・・・。
相変わらずデリック・クックの仕事は素晴らしい。マーラーらしさを残しながらも感情の部分まではなぞらえられていないがゆえの傑作なんだとこの演奏を聴いて悟った。
ギーレンの必要以上の感情移入が、どこかマーラーとしてはよそよそしいこの第10交響曲をいかにもマーラー的に料理することで、クックのこの曲への(あるいはマーラー自身への)客観性を見事に想像させてくれる。

第5楽章冒頭の太鼓のずしりとした響きが心に刺さる。

先の手紙から推測するに、そして「プルガトリオ」が精神精錬作用だとするならば、第1楽章と第2楽章は「孤独の嗜み」であり、そして第4楽章とフィナーレも同じく「それ」だと解釈することも可能。となると、第10交響曲はあくまで自身を癒すための作品だということだ。ここには哀しいかなアルマへの愛はない・・・。

 


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